静まりの時 ガラテヤ1・11.12
日付:2023年12月15日(金)
兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
(11,12)
「人間によるものではない」、「人間から受けたのではない」。
ガラテヤ署を書いたのは使徒パウロですが、その同じ使徒パウロが書いたコリント人への手紙には次のような言葉があります。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、・・・」(第一コリント15・13)
ここで、最も大切なこと、すなわち福音は、自分も受けたことであり、その受けたものをあなたがたにも伝えたのである、とパウロは語っています。
人間によるものではない、とは、方法のことを語っているのではありません。方法としては、私たちは、何らかの形で「人間」によって、福音を知らされました。福音は「人間」から受けたのです。
教会に来て牧師から福音を聞いた、というならば、牧師という人間から受けたのです。配布されているトラクトによって福音を知った、というのなら、そのトラクトを配ってくださった人間がいました。またそのトラクトの文章を書いた人間がいて、それを印刷した人間がいました。聖書を読んで信じた、というのならば、その聖書の言葉を伝えてくださった人間がいました。日本語で読んだというのならば、日本語に翻訳してくださった人間から受けたのです。おおよそ福音を受けた、ということは、方法としては、必ず人間から受けたのです。
ではここでパウロが、私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではない、また、私自身もこの福音を人間から受けたのでも、教えられたのでもない、というのは、どういう意味なのか。何が言いたいのか。
それは、この「福音」というものは、人間的な哲学や処世術、といったたぐいのものではない、神からのものである、神からものということは、イエス・キリストの啓示、によるものなのです。
人間の知恵や、その文化の中から編み出されたものではなく、人間以外のところ、天からもたらされたもの。それが福音です。
かつて神の教会を激しく迫害し、それを滅ぼそうとしていた自分自身が、こうして変えられ、福音を宣べ伝える者となったのは、ただひたすら神さまの一方的な御愛による神さまの御業なのだ、とパウロは続いて語りました(13節~)。福音は、人間を変える力を持っています。人間の経験値からは何の希望も見いだせないところにも、希望をもって生きる生き方を生み出します。
「イエス・キリストの啓示」。啓示とは、黙示とも訳される言葉ですが、被(おお)いを取り除く、という意味を持っています。見渡す限り絶望しかないとこにも、その外から解決の御手がやってきた、それが福音なのです。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
(マタイ1・23)
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
(ルカ1・31-34)
処女降誕は、聖書の語る最大の奇跡の一つです。今も昔も、人間の世界では処女懐妊などありえないことです。この人間の世界ではありえないこと、によって、イエスさまはこの世に来てくださいました。神さまがこの世に来たことを、人間的に説明が出来たならば、結局はそれは人間によるものです。ときおり、処女懐妊を科学的にも説明可能として説明しようとすることがあったとすれば、それは福音を別のものに変えてしまうことです。処女懐妊、処女降誕は、どこまでも人間の知恵によって説明できないこと、だからこそ重要な意味がそこにある。どんなに人間的に可能性が見えないところにも、人間の「外」からやって来てくださった神さま。それがイエスさまです。ただの神でもなく、ただの人間でもない、まことの神であり、同時にまことの人であるイエスさまです。そのイエスさまを信じる者は、どのようなところにあっても絶望する必要はありません。希望に生きることが出来るのです。