静まりの時 ヨハネ3・31~36
日付:2023年12月16日(土)
31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。
34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。
36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
(31-36)
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」(31)
「上」とは「天」のこと、「上から来られる方」「天から来られる方」とはイエスさまのことです。そのイエスさまは、「すべてのものの上におられます」。
私たちが日々出会う様々な事柄の、その上にイエスさまがいてくださいます。その上にイエスさまがおられるのですから、イエスさまはすべてのことをご支配なさっておられます。
地から出る者は地に属し、地のことを話します。ですから天から来られたイエスさまは、地には属されません。また地のことをお話しにはなりません。天のことを話されます。
「神が遣わした方は、神のことばを語られる。」(34)
イエスさまが神さまのことを話されるのは、「神が御霊を限りなくお与えになるから」(34)です。イエスさまが語られるところ、そこにご聖霊さまが豊かに注がれています。父なる神さまからのことを、イエスさまが語られる。聖霊によって、イエスさまが語られる。三位一体の神がそこに働かれます。
「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」(35)
イエスさまが、父なる神さまのこと、を語られるのは、父なる神さまが御子イエスさまを愛しておられ、御子イエスさまの手にすべてをお与えになったからです。愛による交わりが、知識を与え、語りを生みます。三位一体の中に愛があり、その愛がほとばしり出るように、神さまのことが語られます。私たちは聖書の言葉に出会い、神さまのことを知ります。そうして三位一体の中にあふれ出ている神さまの愛に出会います。
「この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」(32,33)
イエスさまは、父なる神さまとの交わりの中にあって「見たこと、聞いたこと」を証しされます。しかしその証しを受けれる者は誰もいない、と語り、すぐさま、その証しを受け入れた者は、と続きます。不思議な言葉です。
人間は、本来、神さまの証しを受け入れることは出来ないのです。聖書の言葉を聞いて、それを受け入れる、神さまの言葉として受け入れる、ということは、人間の業では不可能なのです。
しかし、それを受け入れるということが起こる。もしそうして起こったとすれば、それはもはや人間の業ではない。神さまの御業なのだ、という意味でしょう。イエスさまが語られた天のことを受け入れる、ということが、いま私の中に起こっているとすれば、そこに神さまの御業、すなわち本来ならばあり得ないこと、奇跡が起こっているのです。
イエスさまの証しを受け入れること、それは「神が真実であると認める印を押した」ことです。人間が信じるである、私が真実である、と認める印を押したのではありません。私はどこまでも不真実です。しかし神さまはご真実なお方なのだ、と確証したのです。
キリスト者とは、この「神の真実」に生きるようになった者のことです。
洗礼を受ける時に、誓約をします。神さまの前に、誓います。これからは真実に生きます、という誓いのようですが、そこに含まれているのは、自分の真実によって立って生きるという生き方から、180度変えられて、神さまの真実を土台として生きていきます、という覚悟です。救われた者は、もう自分の真実を証明する生き方から自由にされました。自分が如何に有能な存在かということを証明する、表明する生き方から自由にされたのです。なぜなら、この不真実な私を、そのことを十分に知っている神さまが、あなたは高価で尊い、と語ってくださったからです。この神さまを真実として生きることは、なんと幸いなことでしょう。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(36)
「御子を信じる者」、すなわち神の真実に生きるようになった者は、「永遠のいのち」を持っています。死んでも生きるいのち、終わりのないいのちをいただきました。
尽きることのない いのち。死は終わりではなくなりました。死は絶対的な存在ではなくなったのです。死が絶対者でなくなったので、何かを解決するがために死を利用することはできません。死んだら終わりではないのです。
永遠のいのち、といっても、もし裁きの中に永遠に、ということであれば、それは救いではなく裁きです。永遠のいのち、がそのまま救いにはなりません。永遠のいのちが救いになるためには、罪の赦しが不可欠です。聖書は「罪の赦しの救い」(ルカ1・77)を語ります。
罪の赦しをいただく、ということは、神さまの怒りのもとから解放される、ということです。それは「御子に聞き従う」ことによって実現されます。
御子イエスさまに聞き従う、ということは、御子の証しを受け入れることであり、神が真実であると認める印を押すことです。そうでなければ、いつまでも、神の怒りがとどまっています。神の怒りがとどまっているならば、そこに永遠のいのちがありません。
神の怒りではなく、神の愛の中に私たちは招かれています。永遠のいのちに生きるようにと招かれています。神の真実に生きるようにと招かれているのです。
尽きることのない神のいのち、に生きる者とされたことを喜びながら、今日も与えられた道を歩みたいと思います。感謝。