静まりの時 ヘブル3・7~11
日付:2023年12月13日(水)
7 ですから、聖霊が言われるとおりです。
「今日、もし御声を聞くなら、
8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。
荒野での試みの日に
神に逆らったときのように。
9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、
わたしを試し、
四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその世代に憤って言った。
『彼らは常に心が迷っている。
彼らはわたしの道を知らない。』
11 わたしは怒りをもって誓った。
『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」
ヘブル人への手紙には、著者が誰であるのか、誰に宛てて書かれたのか、が記されていません。手紙、というよりも、説教だったのではないか、と言われたりもします。説教だとすると、初代教会が説教をどのような説教を語り、礼拝を捧げて来たのかを想像する手がかりとなります。
礼拝には、二つの中心があります。一つは説教、もう一つは聖礼典です。とくに礼拝では聖餐式がこれにあたります。ローマ・カトリック教会では、聖餐式が中心となって行きました。礼拝というと、ミサにあずかる、すなわち、パンとぶどう酒にあずかる、ということが主な内容となった時期がありました。それを改革することになって生まれたのが、プロテスタント教会です。プロテスタント教会は、説教、を礼拝に取り戻しました。ただ取り戻し過ぎて、今日では、この説教が中心となってしまいました。プロテスタント教会の礼拝というと、聖書のお話を聞く講演会のような感じになってしまいました。カトリック教会では、第二バチカン公会議以降、説教、すなわち、ことばの典礼、が大切にされるようになりました。プロテスタント教会のような長さではありませんが、説教の時間があります。プロテスタント教会でも、聖餐式の大切さが語られるようになりました。それぞれ振り過ぎた振り子が戻りつつある、といった感じです。
さて、キリスト教会において、説教とは一体何であるのか、どのようになされることなのか。今朝のところはそれを学ぶことが出来ます。
「聖霊が語られるとおりです」(7)。
説教とは、聖霊、すなわち神の霊が語ることです。実際には、説教者が語ります。その多くはその教会の牧師が語ります。ときおり外部からの説教者が招かれます。しかし大切なことは、その教会に召された説教者、あるいはきちんとした教会の話し合いと手続きの中で立つことになった説教者が語ることになります。お話しが上手だからとか、有名な先生だからということではありません。今日、インターネットでいろいろな説教者の説教を聞くことが出来ますが、礼拝を捧げるといった中で、御言葉を聴く、御言葉にあずかる、といった場合は、枝としてつながる自分の教会において立てられた説教者が語る説教に耳を傾けることになります。それが、聖霊が語る、ということなのです。
「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。(7b,8)
これは、旧約聖書・詩篇95編からの言葉です。説教が、聖霊によって、語られる、ということで、語られ始めた言葉は、聖書の言葉でした。神さまの言葉が、聖霊によってかたられる、というと、なにか神がかりになって、霊的な体験が語られることを想像するかもしれません。そういう宗教はたくさんあります。しかしキリスト教会において、聖霊が語る、といった場合、それは、聖書の言葉が語られる、ということなのです。
そして、12節以降に、この聖書の言葉の説き明かしが続きます。このようにこんにちも聖霊が語られる説教というと、必ず聖書が朗読され、その聖書の言葉の説き明かしが成されるのです。それが説教であり、神さまのおことばなのです。
このとき、語る者も、聴く者も、ともに、心が頑なでない、心を柔らかにする、心が開かれる、ということが大切です。
「荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。」(8b、9)
説教が語られる、説教が聞かれる時、私たちには心を頑なにしてしまう誘惑があります。どんな誘惑であるのか。ここに「わたしを試み、わたしを試し」という言葉があります。荒野での試み、というのは、神さまを試みる誘惑でした。荒野での誘惑というのですから、神さまによって、あるいは悪魔によって民が誘惑されること、試みられることと考えがちですが、その逆で、神さまを試そうとすること、それが民の誘惑だったのです。
説教を聞くときに、私たちは神さまを試そうとする誘惑にさらされています。本当に神さまはおられるのだろうか。神さまがおられるならば、なぜこんな目に合うのか、神さまが全能で愛であるならば、すぐにでも私の問題を解決してみよ、などなど。しかしそれは、根本的に、説教を聞くということを、間違って捕えているのです。それでは、安息に入れません。
「だから、わたしはその世代に憤って言った。
『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない。』
わたしは怒りをもって誓った。
『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」(10,11)
安息に入るための説教。どう語られなければならないのか。どう聞かれなければならないのか。心を頑なにしないというが、それは一体どういうことなのか。
私は、信仰をもって語ること、信仰をもって聞くこと、なのだと思います。神さまを見上げ、神さまに委ねながら、語られる、聞かれる、ということ。いま神さまは私に何を語ろうとしておられるのか、を思いめぐらしながら、語り、聞く、ということ。そうすると、安息への道が開かれていくのです。聴くことによって神さまを信じる、ということも真理ではありますが、神さまを信じて聴く、ということが大切なのです。
「このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」(19)
聖霊が語る説教。どのように語られるのか。説教の説き明かしこそ、聖霊が語る説教である、というが、それでは、聖書をとりあえず説明しておけばそれでよいのか。それが聖霊の語ることばとなるのか。信仰をもって語る、ということはいったいどういうことであるのか。
神さまは全能のお方なので、私たちに人間にご自身のおことばを語るのに、何か不自由でもあるかのように、人間に手伝ってほしいなどと言われるお方ではありません。にもかかわらず、神さまは宣教を人間に委ねられました。
それは、聖霊によって語られる神の言葉とは、何よりも、愛のことばだからです。愛は、愛する、ということによってのみ伝えられます。愛するということは、自由意志を持ったものだけ、すなわち人間だけができることです。
ですから、説教者は、聖書の言葉を語るときに、最初の聴衆者として、神さまの言葉を聞く、自分に対して神さまは何を語っておられるのか、を聞く。そうして自分の言葉となる。その言葉を、会衆に語る。そこでは、会衆を愛する、ということがどうしても必要です。会衆を愛さずして、聖霊の言葉を語ることは起こり得ません。そもそも宣教、伝道とは、愛すること、なのです。学者然として聖書を解説することでもなく、教師然として高尚な教えを人々に垂れるのでもなく、一人の弱く貧しい罪人の頭として、御言葉に取り扱われたことの喜びを語るのです。そうして神さまとはどのようなお方であるのか、イエスさまがどんなに私たちを愛しておられるのかを、喜びにあふれて語ること。それが説教です。別の言い方をすれば「私が」イエスさまに救われた喜び、安息に入れられた喜びと感謝を語ることなのです。なんと喜ばしい奉仕でしょうか。