静まりの時 ルカ1・57~66
日付:2023年12月06日(水)
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
月が満ち、エリサベツは出産の時を迎えました。生まれてきたのは男の子でした。もちろんザカリヤ、エリサベツ夫妻は、男の子であることを天使のお告げで知らされています。しかし二千年の昔、エコーもありませんので、胎内の子の性別は生まれるまで確かではありません。男の子が生まれたことは、親族にとって大きな喜びだったのだと思います。近所の人びとも集まり、彼女とともに喜びました。
さて、八日目になって、割礼の日を迎えます。割礼の日は、命名の日でもありました。親戚の中には発言権の大きい人もいたようです。集った人びとは、父の名にちなんで、ザカリヤとつけようとしました。しかしここで、母であるエリサベツがストップをかけます。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」。
これこれ、嫁が何を言っている、などということだったのでしょうか。途端に反論されます。そんな名の人は、あなたの親族にはいないではないか。そこで父であるザカリヤに聞いてみよう、ということになりました。ザカリヤは、書き板、を持ってこさせ、そこに、ヨハネ、と書き記しました。それを見た人びとは、驚きました。もう反論できません。割礼を受ける幼子は、ヨハネ、と名付けられることになりました。
ザカリヤが、ヨハネ、と書き板に記した途端、ザカリヤの口が開かれました。あの神殿での出来事(1・5~)以来、口がきけなくなったザカリヤは、10か月に及ぶ沈黙を破って再び話せるようになりました。そして最初にその唇から漏れ出た言葉は、神さまへの賛美でした(64)。
沈黙ののちに最初に発せられた言葉が、神さまへの賛美であった、ということ。長い沈黙が賛美を生み出した、ということ。賛美は沈黙の溢れである、と誰かが言いました。
「私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある」(詩篇34・1)。
ザカリヤは、喜びの出来事の中で賛美を歌ったのだと思います。その喜びは、エリサベツの出産を聞いて集って来た近所や親せきの中にあった喜び(58)とは、少し違っていたのだと思います。無事の出産をただ喜んだだけではなく、そこに「主の御手があった」ことを喜んだのだと思います。また恐ろしいような使命を担う子どもの出産であったことを予感している中での喜びだったのだと思います。
主への賛美は、近所や親せきの人達の中に生まれた喜びではなく、このザカリヤの喜びの中に生まれるのだと思います。
今一つ心に留まることは、生まれてくる幼子の名前をヨハネとつけよと天使から聞いたのはザカリヤでした。そのザカリヤは、それ以来、言葉を失いました。妻のエリサベツは、夫のザカリヤから、生まれてくる幼子の名前を、ヨハネ、とすることを、その言葉をもって聞くことが出来ません。彼女はどのように知り、確信したのでしょう。
ここに懐妊から出産までの間の、この夫婦の過ごし方が想像されるのではないか。
夫のザカリヤは言葉を一切話しません。話すのはもっぱら妻のエリサベツです。多くの沈黙の時が流れていきます。しかしその少ない会話の中に、しかし、名前をヨハネとすることが、分かち合われています。最初はエリサベツも不思議だったでしょう。しかし夫は主張し続けます。いつしか二人の間に、子どもの名前をヨハネとする、ということが、確かなものされていきました。おそらく親戚からは、別の意見が主張されるであろうことは想像されます。エリサベツとしては、「ヨハネ」と主張できるのは自分だけです。割礼の時は、ヨハネとしなければなりません、と自分が言わなければならない! 重大な使命を胸に、割礼の日を迎えたことだと思います。初産を待ち望む老夫婦が一つとなって、睦まじく過ごす日々を想像しました。
「二人は一人よりもまさっている。
二人の労苦には、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるときには、
一人がその仲間を起こす。
・・・
一人なら打ち負かされても、
二人なら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
(伝道者の書4・9~12)