静まりの時 ルカ1・46~56
日付:2023年12月05日(火)
この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださったからです。
(48,49)
「私を幸いな者と呼ぶでしょう」。ここにも「幸い」という言葉が出てきます。
神さまが目を留めて下さった、という幸い。力ある方が大きなことをしてくださった、という幸い。そもそも神さまが目を留めて下さった、ということ自体が大きなことなのですが、ここではさらに、神の御子をその胎に宿すということ、でした。いわば神さまの母となる、ということです。それは、誉れ、なことなのだと思います。そしてそれが幸いなことなのだと思います。しかしマリアさんにとっては同時に、手放しで喜ぶことができないような恐ろしいことでもありました。
新改訳では「この卑しいはしために・・・」、共同訳2018では「この卑しい仕え女に・・・」。一方、口語訳では「この卑しい女さえ・・・」、新共同訳では「身分の低い、この主のはしためにも」。心に留まった違いは、前者が、ことさら自分自身を強調しているのに対して、後者は、神さまはすべての人に目を留めてくださるのだが、しかし、それでも私なんかには目を留めてくださるはずがない、しかしそのような私にも目を留めて下さった、私にさえ目を留めて下さった、驚くべきことである、という心が感じられます。
卑しいはしため、つまり卑しい女奴隷であるにも関わらず目を留めてくださった、という喜びが歌われているのだと思います。卑しい女奴隷だからこそ目を留めて下さった、というのであれば、卑しい女奴隷、ということを誉れとしている、という雰囲気がありますが、卑しい女奴隷、ということ自体は、どこまでも否定的なことであるはずです。そのような者に目を留めて下さったからこそ、それが、力ある方の大きなこと、なのです。
人間は、何かができるということ、能力があるということ、いわゆる幸福的なことを、自慢したいものです。逆に、自分の不幸は、一般的にひた隠しにしたいものだと思います。しかし時に、その自分の不幸を、むしろ武器のようして、周りを支配しようとしたり、自分の思い通りにコントロールしようとしたりもします。複雑です。自分がいかに不幸であるかを訴え、それを利用して、周りの人の言動をコントロールしようとする、ということが起こるのです。
マリアさんは、そのような感じで、「この卑しいはしために(こそ)目を留めてくださった」と歌っているのではないと思います。マリアさんは、ただひたすら自分が本当に卑しいはしためであることを告白しているのです。
自分の貧しさ、足りなさ、を私たちはほんとうに告白することが出来るだろうか。
私たちがそのくちびるから告白するものといえば、結局自分を誉れとすることばかりに終始してしまうのではないか。たとえ貧しさや、足りなさが語られたとしても、結局は、自分が如何に謙遜であるかを示そうとしているだけであったり、貧しさを語りながらも、それを聞く誰かによって、いやそんなことはないですよ、と褒めておただくことを待っているだけの言葉である、とか。幸いを語ることも、不幸を語ることも、結局自己中心から抜け出ることが出来ない。そんな気もします。
本当に、自らの貧しさ、足りなさを、告白することが出来る、とすれば、それは自己中心から抜け出ていなければならない、ということだと思います。
マリアさんは、その心をここで歌っているのだと思います。神さまを大きくする(マニフィカト)ことをしているのだと思います。そして本当に自由な心で、自らを、卑しいはしため、と表現しているのは、この神さまの御前だからこそ、なのだと思います。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
だから、わたしは人をあなたの代わりにし、
国民をあなたのいのちの代わりにする。
恐れるな。
わたしがあなたとともにいるからだ。
(イザヤ43・4,5)
人間の目に高価で尊い、との道を求めることから自由にされ、ただひたすら、私という人間は神さまの目に高価で尊い存在なのだ、という信仰的な事実のみに生きることができれば、どんなに幸いなことかと思います。マリアさんは、その幸いに生きたのだと思います。
実家に寄ったらひまわりが咲いていました。えらい寒そうなひまわりです。