静まりの時 イザヤ40・1~5
日付:2023年11月28日(火)
1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。
──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。
これに呼びかけよ。
その苦役は終わり、その咎は償われている、と。
そのすべての罪に代えて、
二倍のものを主の手から受けている、と。」
捕囚の中にあったユダヤの人びとは、さまざまな苦しみや困難に出会っていきました。彼らは祖国を離れ、遠くユーフラテス川あたりに、偶像に囲まれながらの生活を強いられました。しかしそこで新しい生活を始めることになった人びとの中には、異教の地で豊かに生きる人も生まれたようです。一方パレスティナにとどまることになった人たちもいました。荒廃した土地に固執したことから、経済的な困窮の中に生きることになりました。
彼らの苦しみは、祖国のさまざまな意味での分断、分裂にありました。また彼らに襲った危機は、幸福を与えてくれるのは異教の神々である、とのアイデンティティーが失われてしまうようなことでもありました。
このかなり複雑な苦しみや問題の中にあって、いったいこのような苦しみや問題はどうして起こったのか。神さまが全能なるお方で世界の創造者であり、かつ善であるお方ならば、なぜこのような状態の中に自分たちは生きなければならないのか。きっと神さまは全能ではないのだ。あるいは全能であるならば、善なるお方ではないのだ。との早急な結論も出されることとなったでしょう。
そもそも神の国であるイスラエルが、どうして異教の国であるアッシリアやバビロニアに屈することになったのか。その疑問も大きかったと思います。異教の国を悪と決めつけて、神の国である自分たちは常に勝利の道を歩む、という考えは破綻しています。
そのような中にあるユダヤの人びとに、神さまは「慰めよ」と語り始められました。
何が慰めになるのか。「安価な慰め」(ボンヘッファー、『キリストに従う』)ではなく、本当の慰めとは一体何であるのか。
「その苦役は終わり、その咎は償われている」。新共同訳では、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」。苦役の時は、途中で終わったのではありません。償いのために、その時が満たされたのです。ユダヤの人びとが経験している苦しみの背後には、確かに善をもって世界を創造し統べ治めておられる神さまがおられる。その神さまの前に自分たちは苦しみの時を過ごしている。苦しみにも大きな意味がある。いかなる事情の中にも、そのただ中に神さまはおられる。苦しみの意味をすべてつまびらかに解明することは出来ないかもしれない。しかしこの神さまに心向けよう。苦しみの中にも、神さまの愛の御手を見失わないようにしよう。神さまに信頼し続けよう、と。
イエスさまを信じて生きる、ということは、何もかもがトントン拍子にうまくいき、願の通りに世界が回っていく、ということではありません。そういう安易な慰めを提供しようとする宗教はいくらもあるかもしれません。しかし聖書の神さまは、そのような安価な慰めではなく、本当の慰めを与えて下さいます。
「エルサレムに優しく語りかけよ」。新共同訳では「エルサレムの心に語りかけ」。心に語りかけること。それが優しく語りかけることである、ということでしょう。そこに真実の慰めが生まれます。心に語りかける、とはいったいどういうことでしょう。
優しい、という字は、人偏に憂い、と書く、憂いを背負う人こそ、真実に優しい人である、と誰かが説明していました。
苦しみに出会った人にしか語り得ない言葉があります。苦しみをないものとして生きる者には分からない言葉、安価な恵みばかりを追う者には理解できない言葉です。
苦しみを神さまからの大切なプレゼントであると受け止め、世界を恨むのではなく、世界への愛を注ぎ続けようとすることにおいて獲得される言葉。そのような言葉こそ、優しい言葉であり、心に語りかけられる言葉なのだと思います。そんな真実の慰めの言葉を語る者にしていただきたいと思いました。
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。あなたの御口のみおしえは私にとって 幾千もの金銀にまさります。」(詩篇119・71、72)