静まりの時 ルカ12・13~21
日付:2023年11月15日(水)
群衆の中の一人がイエスに言った。
「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
すると、イエスは彼に言われた。
「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
(13,14)
イエスさまのもとに集まった群衆の中に、遺産相続の問題で悩む人がいたようです。その人は、その問題の解決を、イエスさまのところに持ってきました。遺産相続において問題が起こるのは今も昔も変わることがないようです。
人生の問題をイエスさまのところに持ってくることはよいことです。私たちはなんでもイエスさまに祈ります。そして解決をいただこうとします。イエスさまはそのすべてを聞き受け止めて下さいます。
しかしイエスさまは、私たちの願い通りに応えてくださるわけではありません。イエスさまは最も良い答えを与えて下さいます。その答えに私たちがたどり着くように導いてくださいます。
そして人々に言われた。
「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15)
この時は、人間の中にある「貪欲」の罪に光を当てようとされます。それがイエスさまの答えでした。イエスさまは常に私たちの心にある暗闇に光を与えようとされます。そうして一つのたとえを話され、その続きに「御国を求めなさい」(31)との言葉が語られました。財産も大切だけれども、それよりももっと大切なものがある。それはいのちだ、そのいのちを本当に大切にするためには、すべてを神さまにお委ねして、ひたすら神さまのご支配を求めていきなさい、と語られたのです。
さてここで語られたたとえ話は以下の通りです。
それからイエスは人々にたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。
『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし、神は彼に言われた。
『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
(16-20)
「愚かな金持ち」のたとえ、と題されているところです。財産よりもいのちが大切なのだ、だから今夜いのちがとられるかもしれない、ということを念頭に置いて、今を大切に生きていきなさい、ということかもしれません。メメント・モリ、死を覚えよ、という言葉がありますが、何が一番大切なことなのかを見失わないで生きていくための知恵だと思います。いのちには限りがあります。今日をどのように生きていくのかを、何よりも大切に考えたいと思います。
ただ、明日は死ぬかもしれない、とイエスさまは、私たちを脅しておられるのではないと思います。
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(21)
「神に対して富む」とは一体どういうことなのか。ある先生はその説教集の中で、「神の前で、いつでも自分を豊かな者として示し得るということ」と語っておられました。
財産だけではなく、自分の中の正義や信仰、愛、などなど、何一つ誇ることがなくても、神さまの前に立った時、
五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。
(ルカ12・6,7)
このように語ってくださる神さまの前に立っていることを忘れてはなりません。神さまに対して富む、とは、神さまがどんなに私を愛していてくださるのか、どんなに価値ある者と見つめていてくださるのかを、忘れない、その事実を喜ぶということです。
この恵みの中にあることを深く覚えるならば、そうして貪欲という罪から解放されるならば、イエスさまのところにやってきた遺産相続の問題で悩んでいる方の悩みも解消されるのではないか、と思いました。