一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい

静まりの時 第二コリント9・6~15
日付:2023年11月11日(土)

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(7)

 「祝福の贈り物」(5)をあらかじめ用意しておいてもらう必要を感じたパウロが、そのための勧め、依頼をしています。
 祝福の贈り物、すなわち施しは、いやいやながらでなく、また強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい、と言われています。
 いやいやながらでなく、また強いられてでもなく、献げる、ということをどうすればできるでしょうか。それは、自分で決めたとおりにする、ことによって可能となる、ということだと思います。
 自分で決める、ということは、自分以外のものによって左右されない、影響されない、ということでしょう。署名のお願いのなかで、ときおり募金も募集される場合があります。署名もそうですが、寄附をするかしないかは自由です。その金額も自由なはずです。自分で決めればよいのです。しかしそこに自分の名前を書き、そしてその横に金額を書く、という場合、多くの場合は、先に書いた人の金額を書くのではないでしょうか。それは、自分で決める、ということにちょっとなっていないように思います。
 自分で決めるということは、案外難しいものです。何にも影響されず、ただ神さまの前に金額を決める、ということは、たった一人になって神さまの前に祈ることによってのみ可能なのだと思いますし、そこで決めた金額が、神さま以外に知られることがない、という安心感があってはじめて可能となることなのだと思います。
 募金や献金、施し、というものが、健やかになされるためには、匿名性も大切だと思いますし、またその場その場で決めるのではなく、神さまとの間で前もって決定しておく、ということがどうしても大切になってくるのだと思います。

 そのようにして献げられるところに喜びがあるのだと思います。そしてそのように喜びをもって献げる人を、神さまは愛してくださる、と聖書は語ります。
 もちろん、誰を愛して、誰を愛さない、などと言うことは、神さまにおいてはありません。神さまはすべての人を愛してくださっています。しかしこのように書かれているのは、神さまの愛が留まっているところ、というのは、どういう所であるのか、を語ろうとしているのだと思います。
 何にも左右されず、ただ神さまの前に心を定めることが、信仰生活なのですから、そのような人のところに、自由と喜びがあるのは確かなことだと思います。神さまの愛を、より深く感じ、受け止めている人、ということが出来るのではないか、と思います。

「そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。」(14)

 施しを受け取ることになった人たちが、自分たちに施しをしてくれた人たちを「慕うようになる」というのですが、これは考えても見れば当たり前のことのように思います。しかし聖書は、彼らが慕うようになるのは、自分たちに施しをしてくれたからではなく、「あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえ」に、あなたがたを慕うようになる、と語ります。
 献げ物を通して、そこに、献げるものに神さまが与えて下さったこの上なく豊かなめぐみを、受ける側が発見する。それゆえに、慕うようになる、というのです。
 ここには、施しを受ける側の信仰というか、覚悟が記されているように思います。献げられたものによって、それを献げた「人」を見るのではなく、そのようにしてくださった「神」を見るのです。そうして、今度は、その献げた人を「慕う」ということが起こる。慕うといっても、俗な意味ではなく、神さまの家族としての祈りの交わりが広がっていく、ということでしょう。

 人間は愛されることによって、喜びをいただきます。それとともに、誰かを愛することによっても、喜びをいただくように、神さまは人間を創造してくださいました。誰かにプレゼントをする、という喜びを人間は神さまからいただいているのです。その喜びが健やかなものとなるために、そしてその喜びが真実の喜びとなるために、献げる者も、それを受け取る者も、ともに信仰が必要なのです。あるいは愛が必要である、ということなのだと思います。