静まりの時 ガラテヤ6・1~10
日付:2023年11月09日(木)
「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(1)
「兄弟たち」、との呼びかけは、教会に生きるキリスト者すべてに対して呼びかけている言葉ですので、そこには兄弟だけではなく姉妹も含まれています。だからでしょうか共同訳2018では「きょうだいたち」とひらがなで表記されています。
「だれかが何かの過ちに陥っている」。キリスト者だからと言って完璧な人はいません。さまざまな過ちに陥るお互いです。何かの過ちに陥っている人がいる。そういう人がいるならば、糾弾するのでも断罪するのでもなく、「柔和な心でその人を正してあげる」のがキリスト者のやり方です。それが「御霊の人」です。「御霊の人」とは、教会員のなかで、特に優れて霊的な人のことを言っているのではありません。イエスさまを信じたその瞬間から、みなもれなく「御霊の人」なのです。
「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」。自分にも気を付ける。当たり前のことですが、あんがい自分のことはさておいて、他人のあら探しばかりをしてしまうのが、私たちです。自分の目の梁には気づかず、他人の塵ばかりを数えようとするのです。もしかすると自分の目の梁には気づいているのですが、それから目をそらすために他人の塵を数えようとするのかもしれません。
「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」(2)
キリスト者は、キリストの律法、すなわち、愛の律法を成就するために、イエスさまに召されました。それは、「互いに重荷を負い合う」ことによって、実現します。教会は、重荷を降ろすところであると同時に、重荷を負い合うところでもあります。
「だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。」(3)
「自分を何者かであるかのように思う」とは、自分が偉大な者、賢い者、何か優れている者と思うこと。それは自分を愛しているのではなく、「自分自身を欺いている」のです。自分を欺いていて幸せな人生を送ることは出来ません。
「それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。」(4)
「自分の行いを吟味すること」。それがキリスト者の信仰生活です。もしかしたらそこで、自分だけには「誇る」ということがあるかもしれない。しかし他の人に誇るところは何もないことが分かるはずだと言います。そうでなければ、自分の行いを本当の意味で、吟味したことにならない、ということでしょう。自分の行いを吟味するのは、勇気がいることです。しかしイエスさまがともにいてくださいますから、安心して自分を吟味することが出来ます。
「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」(5)
先ほど2節で互いに重荷を負い合え、と語られましたが、結局、私たちは自分自身の重荷を負うことになるのです。教会は重荷を降ろすところです。それは、イエスさまのところに降ろすことです。イエスさまのところに降ろすということは、自分自身の重荷を、しっかりと負わせていただくことなのです。自分一人で担ってきた重荷を、イエスさまと一緒に担わせていただくようになるのです。そうして私たちは自分の人生を豊かに生きることが出来ます。
「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」(6)
みことばを教える者、と、みことばを教えられる者。教えられる者は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合うこと。分かち合う、という言葉は、コイノニア(コイノーネオー)、という言葉で、交わりという意味を持っています。
分かち合うべき「すべての良いもの」とは単に物質的なものというよりも、愛を分かち合う、ということでしょう。
みことばを聞く、ということは、交わりの中に成されることである、ということでしょう。一方通行ではない、ということです。実際にレスポンスが成されなくても、そこに豊かな交わりが形成されていく。そうしてこそみことばの分かち合いが実現します。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(7)
蒔いた種は刈り取らなければならない、ということは、聖書からの言葉というよりも、ことわざにもなっているようにどの文化の中にもあるような人生訓のようなことばです。しかし、私たちは、漠然とした人生ではなく神さまと向き合っています。神さまが、侮られるような方ではない、ことを知っていなければなりません。
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(8)
「自分の肉」に蒔くのか、それとも「御霊に蒔く」のか。滅びか、それとも永遠のいのちか、の大きな分かれ道です。私たちの言動が御霊に蒔くことであるならば、そこで蒔かれたものは、決しては消えてなくなることはない、ということでしょう。
「自分の肉に蒔く」とは、自分の私利私欲、願望、欲望、自分のプライド、名誉、そういうことのために、行動する、ということでしょう。そういう営みは、すべて滅びに向かうことです。
逆に「御霊に蒔く」とは、ひたすら、神さまのために行動する、ということでしょう。それは、自分の願望や欲望、自尊心など、おおよそ自己中心的なものをすべて後回しにしていく、ということでもあります。そのような営みは、すべてもれなく永遠のいのちに結び付いていくのです。
神さまを愛すること、自分自身のように隣人を愛すること。人間は、自分よりも神さまを愛することによって、はじめて自分を正しく愛することが出来るようになり、そうして隣人への健やかな愛に生きるようになります。自分だけを見つめていては、自分を愛することが出来ません。神さまを見上げて、神さまがどんなに私を愛していてくださるかを知り、そうして自分を真実に愛することが出来るのです。そうして自分を愛することが出来る人だけが、隣人を愛することが出来ます。それが、御霊に蒔く、という生き方ではないでしょうか。
「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」(9)
私たちは、失望しやすい者です。特に善を行うのに、失望しやすい者です。善を行ったにもかかわらず、失望する結果を受け取らなければならないことがあるのです。あきらめてしまいそうになります。しかしあきらめずに続けていれば、かならず時が来る、といいます。神さまがその時を備え得ていてくださる、というのです。その「時」には、大いなる収穫をすることになります。
「ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(10)
その「時」がくることを信じて、私たちは、どんなときにもひたすら「善を行いましょう」。「機会があるうちに」ということですから、機会がなくなる時がやってくるかもしれない、というのでしょう。機会、チャンスがある、そのときに、私たちがすべきことは、ただひたすら「善」なのです。
すべての人に善を行うのですが、ことさら「信仰の家族」に善を行いましょう。
「信仰の家族」。それは、ともに教会に生きるお互いのことです。たがいに、励まし合い、教え合い、慰め合い、赦しあい、支え合いましょう。そうして善を行い続けましょう。
教会の庭のオリーブの木が、ことしもたくさんの実をつけました。