静まりの時 ガラテヤ5・13~15
日付:2023年10月31日(火)
「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです。気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(13~15)
イエスさまを信じる信仰に生きる、ということは、自由を与えられる、ということです。信仰が、人を不自由にする、と考える人もいるかもしれませんが、イエスさまを信じる信仰は、人を自由にするものなのです。
自由というと、自分の好き勝手にする、というイメージがあるかもしれませんが、本当の自由はそういうものではありません。自分の好き勝手にしているのは、自由ではなく、自分の感情や欲望の奴隷になっていることで、決して自由ではないのです。自由ではない人生に、本当の幸福はありません。
人の行動には、三つの原動力があると誰かが言われました。一つは、そうしたいからする、という行動。二つ目は、そうはしたくないけれども、そうすることが得だからする、という行動。三つめは、そうはしなくないし、そうすることが自分の得にはならないけれどもする、という行動。一つ目と二つ目は、人間でなくてもやっていることだと思います。しかし、三つ目の行動は、人間だけができる、あるいは人間だけに許されている行動だと思います。それは使命によっての行動と言えるかもしれません。
使命というと、ちょっと大げさな感じもしますが、小さな生活の中でこそ、大切なことなのだと思います。小さな生活の部分でこそ本当にイエスさまを信じているかどうかが明らかになるのだと思います。ちょっと自分のことを横において、家族の話に耳を傾けるとか、電車で必要な方に席を変わってあげるとか、そんな感じですね。そんなところで、イエスさまを本当に信じているかどうかが問われているのだと思います。
本当の自由とは、そのように自分の願望をわきにおいて、感情に流されないで、善と思える道を選択していく。それが自分にとって損と思われることであっても、選択していく。自由とは、選択の自由のことなのです。
さて、ではこの三つ目の行動原理によって生きていれば、それで、真の自由に生きることになるのか。加藤先生の説教集からの言葉を引用したいと思います。
「ある宗教改革者は申しました。どんなに道徳的な、立派な善い行いであっても、神さまの支配を受け入れていない時には、それは肉なのである、と。いわゆる肉欲を退け、あらゆる欲望を退けて、実にきれいな潔癖な生活をしているように思われても、神さまの支配が見えてこないものは罪でしかない。これを古代の神学者アウグスティーヌスは、『輝ける悪徳』と呼んだのであります。輝いてはいる。しかし、神の支配を受け入れていない時にそれは悪徳でしかない」。(加藤常昭、『十戒講和・ガラテヤ人への手紙 加藤常昭説教全集17』、ヨルダン社、1992年、248頁)
本当の自由に生きる、ということは、神さまのご支配のなかに生きる、ということなのです。そこでこそ、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に生きる道が開かれます。
どんなに立派な生き方がそこにあっても、神さまのご支配のなかに生きることでないならば、それは結局のところ、自己主張です。自己主張であるならば、それは隣人を愛する愛に生きることにはならない。結果、互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしていることになる。立派な行動を強要するところに存在するマニピュレーター、善を主張するところで起こるハラスメントなどもそうでしょうか。そうして人間は滅びに向かってゆくのです。それらが、人間の行動の、三つ目の原理、すなわち、自分の願望でもなく、損得でも無く、使命をもって生きる、といっても、結局自己主張の行動をしていることであり、人間の罪なのです。そのような生き方は不自由な生き方であって、幸福な人生を築くことにはなりません。
同じ行動でも、それが神さまのご支配の中に委ねての行動であるかどうか。神さまに従うことによっての行動であるのかどうか。そうしてほんとうに愛をもって互いに仕え合うことになっているのかどうか。
真価が試されるのは、その行動が、誰かによって賞賛された時ではなく、否定されたときです。誰かに否定されたときに、憤慨したり、プライドが傷つけられた、などというのは、結局、自己主張だったからです。しかし本当に神さまのご支配の中に生きているのであれば、誰かに否定されたときに、その誰かの言葉の中にも神さまのお心を発見するでしょう。すべてのことは神さまの御手の中にあるのですから。
すべてを神さまの御手に委ね、すべての中に神さまの御心があることを信じ、何があっても自由に生きることが出来る。それがイエスさまを信じる者の素敵な生き方なのです。
今日はどんなふうに神さまは導いてくださるでしょうか。