純粋な、霊の乳を慕い求めなさい

静まりの時 第一ペテロ2・1~5
日付:2023年10月28日(土)

「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」
(1~3)

 「それによって成長し、救いを得る」とあります。私たちはすでに救われているのです。しかしそれで終わりではありません。成長するのです。そしてすでに確かに頂いた救いがいかなるものであったのかがより深く分かってくる。それが信仰生活です。
 そのために「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨て」なければなりません。救いをいただいたとはいえ、いまだ罪赦された罪びとです。信仰生活は、日々、自らの内に巣くう悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨てる生活です。
 罪びとである私たちは、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口に生きることをどこか喜びとしているのではないか、と思います。誰かが失敗をした、誰かが間違いを犯した、とんでもない発言をした、ということをあげつらうことが好きなのです。そうして自分はそんなことはしないぞ、ということを心の中で思っている。それは結局はそうしなければ自分というものの価値観が確かにされないからではないか。誰かを低くすることによって自分を高みに置こうとする。そうしなければ自分が高みにいないことを誰よりも感じている。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口が、捨てられないのは、自分自身への価値観の低さから来ているのではないか。
 だからそのようなものを捨てるためには、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求め」なければなりません。生まれたがかりの乳飲み子は、何も身につけていません。着飾ってはいません。丸裸です。ただ泣くしかない。言葉もない、手足もじたばたとはするけれども自分からは移動することもできない。そんな「自分」が、とにかく「純粋な、霊の乳を慕い求め」るのです。
 「純粋な、霊の乳」とは、御言葉のことです。聖書の言葉のことです。聖書の言葉を、純粋に、すなわち混じりけなく、摂取するのです。人間の肉体も、日々何を摂取しているかによって、ずいぶん違いが生まれてきます。不純物が多ければ、それだけ身体に不具合を生みます。塩分が多ければ、水分の摂取量が増えて、血圧が上がります。悪玉コレステロールが多いと、動脈硬化を生むでしょう。
 霊の乳、魂の糧である神さまの御言葉は、食べ貯めるということが出来ません。日々食する必要があります。純粋な、霊の乳を食しているかで、魂の「顔つき」まで変わってくるのです。イエスさまを信じて救われたことには、変わることがありません。しかしどんなキリスト者として成長していくかは、この日々の霊の糧が、どれだけ純粋な霊の糧としていただいているかによって、かなり大きく変わってきます。
 純粋に霊の糧である聖書の言葉をいただくとはどういうことでしょう。聖書をとにかく書いてある通りに受けいれるということでしょうか。聖書は、ただ一つキリストを証しするための書物です。キリストが十字架に架かり復活された。そこに神さまの愛が完全に明らかにされている、ということが語られている書物です。ですから純粋に霊の糧である聖書の言葉をいただく、ということは、聖書のどこを読んでも、神さまが愛していてくださる、ということを発見する、ということです。どこを読んでも、です。
 礼拝で語られる説教も、聖書のさまざまなところを読むのではありますが、主題は、イエスさまの十字架と復活によって明らかにされた神の愛、です。それは聖書の個所がどこであっても変わることがありません。創世記であってもレビ記であっても、詩篇であっても、ヨブ記であっても、ヨハネの黙示録であっても、その主題は変わらないのです。もし神の愛が語られないならば、それが、純粋でなくなっている、ということです。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です」(4)。

 イエスさまのもとに行きましょう。何のために行くのか。霊の乳をいただくために行くのです。しかしそれはまた、イエスさまを礼拝するために行くことです。どんなにイエスさまが、私を愛していてくださるのか、と知り味わうために行くのです。
 イエスさまは神さまに選ばれた尊い生ける石です。このお方のところに、変わることのない神さまの愛が完全に存在するのです。
 しかしイエスさまは、人には捨てられた石である、といいます。人間の目には、役立たずの石であると判断された存在なのです。それは二千年まえにイエスさまを十字架につけたユダヤ人だけではありません。いまを生きる私たちの問題でもあります。人間には、イエスさまの姿は、けっして土台石としては見えなかいのです。現代の社会においてはますますそうなのだと思います。
 力が求められ、効率が求められ、きらびやかで、万人受けするエンターテイメントが求められる社会にあっては、イエスさまのお姿は、弱々しく、どこか時代遅れに見えるのです。しかし、そこにこそ、神の選びがあると聖書は語ります。みすぼらしく十字架の上で死んで行かれたイエスさまにこそ、神には選ばれた、尊い生ける石です。

「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります」(5)。

 イエスさまを信じる私たちも、生ける石として、霊の家に築き上げられるといいます。人間の目から見れば、光り輝く宝石ではないかもしれません。しかし主にある者は、生ける石なのです。築き上げられる霊の家。それは教会のことでしょう。神に喜ばれる霊のいけにえ。それは主にある私たち自身のことでしょう。それを、イエス・キリストを通して献げるのです。私たちの立派さを通して献げるのではありません。ただイエスさまの十字架と復活の御業によって、献げるのです。そのような、祭司、であること。祭司は、動物のいけにえを献げるのですが、イエスさまを信じる者は、自分自身を献げる祭司となるのです。健やかなキリスト教信仰における人間の祭司は、自分自身を献げる者なのです。だれよりもへりくだって、自らを献げる者なのです。

 私たちの団体を生み出してくださった宣教団体は、世界に40か国以上のセンディングベースを持ち、それぞれから1500人を超える宣教師が、また40か国以上の国に派遣されている団体です。日本の教会のために、世界40か国以上の国の1500人を超える人びとが祈っていてくださいます。私たちの教会のためにも祈っていてくださいます。先日来られた宣教師はドイツからの方です。そのお話しのなかで、パンを焼く石窯のお話がありました。
 村に一つ共同の石窯があります。現代ではあまり使われなくなっているようです。それを使ってピザとパンを焼くというお話をしてくださいました。50キロを超える小麦をパンにするとのこと。市販のイーストではなく、パン種、つまり発酵したパン生地が残されていて、それを増やしていき、たくさんの小麦でパンを作ります。石窯は、薪で3時間をかけて温めます。温まったら、炭と灰をすべてかき出し、そこに順にピザやパンを入れていく。温められた石窯は、追加の薪なしで、それだけで多くのパンを焼くことが出来ます。親戚も集まっての、楽しい作業とのこと。日本でいうと、年末の餅つきみたいなことでしょうか。
 石窯の石は、3時間をかけて温まり、その後、ピザやパンを焼くものとなりました。私たちも、まずイエスさまにしっかりと温めていただいてこそ、他者を温める者となります。純粋な霊の乳をいただくために、自らを献げるために、明日の主の日もともに礼拝をおささげしたいと思います。