静まりの時 創世記22・9~18
日付:2023年10月19日(木)
「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」
(16~18)
神さまはアブラハムを試みにあわせられました。この試練を通して神さまはアブラハムが御言葉に従うことを確認されました。それで神さまはアブラハムを祝福すると誓われました。
しかしもともと神さまはアブラハムを祝福すると約束されていましたので、これは最終試験のようなものです。アブラハムはその最終試験に合格したのです。
不思議なのは、このときイサクが何の抵抗もせずに縛られ祭壇の上の薪の上に寝かせられた、ということでしょう。イサク自身にも、神さまの御言葉に従うという献身があったということでしょう。それは父アブラハムに従うことによって明らかにされました。
常識では考えられないことです。また聖書にこのように書いてあるから、私も自分の子どもをいけにえとして捧げよう、などということはおおよそおかしなことですし、やってはいけないことです。
このアブラハムとイサクの献身によって、アブラハム自身の祝福の道が確かなものとなりました。そしてそれだけではなく、アブラハムの子孫の祝福の道が開かれました。さらに、そのアブラハムの子孫によって、地のすべての国々の祝福の道が開かれたのです。
アブラハムとイサク以上にイエスさまは、ひたすら御言葉に従う、父なる神さまの御心に従う、という道を歩まれました。それによって全人類の祝福の道が開かれました。
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(第一ペテロ2・24)
私たちは、イエスさまの十字架によって、癒された者とされるのです。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」
(マルコ8・34,35)
癒された私たちも、自分の十字架を負ってイエスさまに従う者としての道を歩むとき、自らの祝福と共に、多くの人たちの祝福の道を開く者となるのです。