それを保って永遠のいのちに至ります

静まりの時 ヨハネ12・23~26
日付:2023年10月20日(金)

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
(24,25)

 祭りで礼拝のための上ってきたギリシャ人たちが、イエスさまに会いたいとピリポのところにやって来ました。ピリポはアンデレに相談し、二人はイエスさまにそのことを話しました。するとイエスさまは「人の子が栄光を受ける時が来ました」と言われました。
 栄光とは、旧約聖書では「重たい」という意味であると言われます。人の子、すなわちイエスさまが栄光をお受けになる、イエスさまのその重たさ、存在感があらわされる時がきた、というのです。
 イエスさまの存在感。それは何よりも十字架と復活でしょう。一粒の麦が地に落ちて死ぬように、イエスさまが十字架に架かって死なれることによって、豊かな実を結ぶ、すなわち多くの人の救いの道が開かれる、と。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」(25,26)

 一粒の麦が死ぬことによって多くの実を結ぶ。それはまたイエスさまに従う者にもあてはまるというのでしょう。

 いのちを保つことができる。その保たれたいのちは永遠のいのちに至る。死を越えて保たれるいのちに生きることが出来る。そのためには、「この世で自分のいのちを憎む」こと。いのちを愛することによっていのちを保つことが出来る、というのならわかりやすいのですが、この逆説的な言い方に真理がある、聖書の語る、本当に永遠の命に生きる道がある、ということだと思います。

 そもそも自分のいのちを愛するとか、逆に憎むとかいっても、私たちは真実に愛したり、憎んだりということが出来るのだろうか、と思います。自己卑下をし、自己憐憫に陥る。自分の足りなさや愚かさを嘆く。そこには自分を憎むという気持ちがあります。しかしそうするのは、やはり自分のいのちを愛しているからだ、と思います。愛しているからこそ、その足りなさを嘆くのです。
 また愛するといっても、いたずらに甘やかしてしまうことは、真実に愛していることではない、と思います。自分をほんとうに愛する、大切にする、ということには、ときに自分に厳しく接するということも必要となってくるでしょう。憎むとまでは言わなくても、自分自身と距離をとる、自分を客観視する、ということも大切なことでしょう。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(26)

 イエスさまに仕えることと、イエスさまについて行くこと。この二つは同じことだと思いますが、どうやら人間にはこの二つを分離してしまうことが起こる、ということでしょう。イエスさまに仕える、イエスさまのしもべとして仕えていく、イエスさまの喜ばれるように歩んでいく。しかしイエスさまにはついて行かない、ということが起こってしまう。イエスさまについて行かないということは、つまり自分について行く、自分自身について行く中でイエスさまへの奉仕をする、信仰生活を送ってしまう、ということが起こってしまうということでしょう。

 それは結局自分に死んでいない、ということでしょう。一粒の麦が地に落ちて死ぬように、自分に死んでいないので、結果、多くの実を結ぶことにならない。奉仕が豊かになされ、さまざまな活動が展開されているとしても、イエスさまについて行く、ということによってなされていないので、それらは豊かな実を結ばないのです。
 大切なことは、善い行動ができるかどうかではなく、イエスさまに従うことが出来るかどうか。それは自分に死んでいなければできないことなのです。

 世界を見れば、あるいは自分のまわりを見れば、やらなければならないことはたくさんあります。やればよいこともたくさんあります。しかしそれらは、自分がやらなければならないことなのか、今やるべきタイミングなのか、自分の体調や精神的状態を考えるとどうなのか。自分にその能力があるのか。などなど。いろいろと考えながら行動しますが、何よりもそれがイエスさまに従うことなのか、が大切であるということでしょう。A型気質(血液型のことではありません)の私としては、何が何でも早急にやらないではいられないのです。しかし病気になって以来、それが出来なくなりました。ちょっと調子がよいと無理をしてしまい、結局あとでしんどくなってしまいます。
 やらなければならないことであり、またやることがどう考えてもよいことであり、さらには他にやる人がいなくて自分がその場に最もふさわしいと判断できることであっても、それがイエスさまに従うことであるのか、を考えて、イエスさまが、すべてをゆだねてゆっくり休みなさい、と言われるのならば、それに従って何もしないということ。そこに多くの実が結ばれていく、ということなのです。もちろんその逆もあると思います。やる必要がなく、それがよいことであるとその時には判断できないことであり、自分がやらなくても誰かがやってくれることであり、さらには自分にはその能力もなく、かえって足手まといとなるであろうと思われることであっても、イエスさまが、そうしなさい、と言われるならば、それに従っていくところに、また多くの実が結ばれるのです。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(26)