静まりの時 創世記22・1~8
日付:2023年10月18日(水)
「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は『はい、ここにおります』と答えた。」(1)
神さまはアブラハムに試練をお与えになりました。それは愛する息子イサクを献げよ、という神さまのお言葉に、従うかどうかという試練でした。
試練、というと、人生に降りかかってきた災い、たとえば、病気になった、とか、人生の問題に出会った、という苦しみや悩みのことを、試練、ということが多いように思います。しかしここでは、神さまの御言葉に従うかどうか、ということを試練と呼んでいます。
「神は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。』」(2)
愛する息子イサクを献げよ、とは、いったいどういうことでしょう。
まず自らの子どもを献げものとする、という、恐ろしいこと、倫理的に問題なこと、もしかしたら異教的なことと言ってもよいようなこと、を神さまがせよ、と語っておられます。なんとも受け入れがたいことです。
次に、愛する息子を献げよ、ということですから、愛が引き裂かれるようなことです。愛していなければ献げてもよいのかというと、そういうことではないと思いますが、ことさら愛している存在を献げよというのです。それを手放せ、というのです。相当なチャレンジです。
さらに、これは最大のことですが、献げよと言われたイサクは、約束の子でした。なかなか子どもが与えられないアブラハムとサラ夫妻に、ようやく与えられた子どもであり、その子によって、アブラハムの子孫を星のように砂のように大いなる民族とする、と神さまが約束された存在です。なかなか息子が与えられないので一時は、女奴隷ハガルによって子をもうけるようなことをしました。イシュマエルと名付けられたその子によって、祝福の道が開けることを彼らは願ったのですが、しかし神さまは、サラによって生まれる子どもこそ約束の子だ、と言われます(17・19)。
唯一無二の約束の子、そのイサクを、ここで献げよと言われたのです。まったくおかしなことです。イサク以外には子孫繁栄の道はない、と言われた神さまご自身が、その子を献げよ、と言われたのです。神さまの自己矛盾と言ってもよいでしょう。これで神さまの祝福の道が絶たれてしまうことでもあります。
理論的にも感情的にも、そして宗教的にも矛盾した神さまからのお言葉。従わないでもよい理由はいくらでも挙げることが出来ます。しかしそれでもあなたは神さまの御言葉に従うか。それが神さまからアブラハムに与えられた試練だったのです。そもそも聖書が試練と語るとき、そういうことを指しているのかもしれません。イエスさまが受けられた悪魔の誘惑も「試練」と聖書は語ります。
献げもののための薪を背負った息子イサクからも、献げものがないことで問われます。それに対してアブラハムは答えました。
「アブラハムは答えた。『わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。』 こうして二人は一緒に進んで行った。」(8)
この恐ろしい状況の中において、アブラハムの心にあったのは、神さまが備えてくださる、具体的にどういうようになるのかは分からない、説明できない、しかし神さまは良いお方だ、かならず備えてくださるに違いない、という、ひたすらな神さまへの信頼だったのだと思います。
先日の礼拝でも、神さまを私の主とする、ということは、その神さまが全知全能の存在であるならば、それは「信頼する」ということである、というようなことをお話ししました。私という主体が、神という客体を、信じる、ということでは、その神はどこまでも限界のある存在です。しかし私たちが信じた神が、全知全能である、ということであるならば、私が信じた、ということも、私という主体のみによる行為というわけにはいきません。そこにも神が働いている、ということを言わないでは、その神は、全知全能であるということが出来ません。ですから全知全能の神を信じた、ということは、そこに、神が主体となって行為しておられる、ということを信じることでもあるのです。そうであれば、信じるということにおいても神さまが働いていてくださるのですから、神を信じるということは、すなわち、その神を私の主、とすることであり、信仰に生きるということは、このお方を主人として生きるということであるはずです。神を信じるということは、信頼する、あるいは委ねるということと限りなく等しいことであるはずなのです。
「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」。神さまが備えてくださる。なんと幸いなことでしょう。
病気になって2年が過ぎたのですが、病気になった、ということも確かに試練かもしれませんが、この聖書の個所が語る試練ということばに当てはめるならば、病気になったけれどもそれでも神さまのお言葉に生きていこうとするか、という問い、その問いに対して、どう答えるのかこそ試練、神さまからの試みなのです。
「神が彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は『はい、ここにおります』と答えた」(1)。
試練は、神さまが直接的に名前を呼んでくださったことなのです。はい、ここにおります、と答える者でありたいと思います。