それは聖なるもので主に属す

静まりの時 レビ記27・30~33
日付:2023年10月17日(火)

 土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。もし、十分の一の一部を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。
(レビ27・30~33)

 本来すべては主のものなのですが、具体的な献げものとして十分の一が主のものであると語られています。しかしどうしてもそれを買い戻したいということであれば、それも可能なのですが、その場合、さらに五分の一を加えて支払わなければならない、ということですから、十分の一とその五分の一を加えるとなると、結局たくさんの支出となるような気がします。牛や羊の群れの十分の一については、機械的にカウントして10番目のものを献げものに指定する、ということです。良し悪しを判断してはならない、取り替えてはならないということは、そういうことをしたくなる事態が想定された、ということでしょう。たまたま十番目にきた牛か羊が、とてもお気に入りのものであったならば、そうでないものと取り替えたくなるのも想像できます。しかしこれは逆も想像できます。最良のものを主に献げたいということから、良いものに取り替える、ということも、本当にそうしたいかどうかは別ですが理論的には可能です。聖書は、それもしてはいけない、ただ単純に十番目のものを主に献げよ、と語りました(27・10)。
 献げる、ということにおいて、人間的な心の動きをできるだけ排除しようとしているような感じもします。
 とかく献げる、ということにおいては、さまざまな心の動きが生まれるものですが、できるだけ単純に神さまにお返しするという心を大切にしなさいと聖書は語るのかな、と思いました。そもそもすべては神さまのものですから、財産だけに限らず、身体も時間もすべてを神さまの御手の中において、神さまの喜ばれるように生きるということが、健やかな生き方を生み出すのだと思います。「神のものは、神に返しなさい」(マタイ22・21)。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12・1)