静まりの時 詩篇51・16~19
日付:2023年10月16日(月)
まことに 私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。
神へのいけにえは 砕かれた霊。
打たれ 砕かれた心。
神よ あなたはそれを蔑まれません。
(16,17)
詩篇は、前文が節にカウントされている新共同訳、共同訳2018とカウントされていない口語訳とで節が1節か2節ずれています。「聖書愛読こよみ」にはそのことも分かるようにかっこ書きで表記されています。しかし今朝の詩篇51編は、口語訳でも前文をカウントしていますので、新改訳だけが2節ずれていることとなり、週報に記載した時にはそれが分かっていなくて訂正できていませんでした。新改訳での節は標記の通りです。
神さまが喜んでくださる献げものとは、砕かれた霊、心である、とダビデは歌いました。
新共同訳では以下のような訳になっています。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(新共同訳 詩編51・16,17)
もしいけにえそれ自体を喜ばれるならば、いくらだって献げることが出来る、しかし神さまがお求めになっておられるのは、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心なのだ、神さまは、それを侮ることはなさらない。何よりも大切に受け止めてくださる、と。
献げものそのものよりも、その心が大切なのだ、と読むことが出来ると思います。しかしそれは具体的な献げものはどうでもよいというのではないと思います。私たちが献げる献げものは、悔い改めの心のある献げものでなければならない、ということなのだと思います。悔い改め、というのは、方向変換である、と言われます。自分に向かう生き方から、神さまに向かう生き方に方向変換する。そうして献げられた献げものこそ、神さまがお喜びになるものである、ということでしょう。
「他の人のことを責めるのは、実にやさしいのです。だから何が悪いかということが、分からないわけではありません。それは、むしろはっきりしているのです。だから、いくらでも、ひとの悪口なら言うのです。しかし、自分のこととなると、話がちがってくるのです。だから、結局、自分だけはいい子でいたい、自分だけは、正しいと言い張りたい、というだけでありましょう。問題は、自分の罪を認めるかどうか、であります。それのほんとうの意味は、自分を失う勇気があるかどうか、ということであります。」(竹森満佐一、『ダビデー悔いくずおれし者』、日本基督教団出版局、1975、131f)
礼拝においても、献金においても、奉仕においても、おおよそ献げるといことであるならば、それはすべて、自分を失う勇気、が問われている時なのだと思いました。