それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた

静まりの時 ダニエル3・24~30
日付:2023年09月25日(月)

「それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。」(ダニエル3・24)

 「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ」。
 紀元前、神の国イスラエルは異教の国バビロンの侵略を受けました。バビロンの王ネブカドネツァルは、家来に銘じてイスラエルの人びとの中から、王族や貴族を数人選んでバビロンに連れて来させました。彼らを王宮に仕えさせるためです。選ばれたのは、心身ともに健康で聡明な若者たちでした。その中に、ダニエルとこの三人がいました。この三人。もともとシャデラクには「ハナンヤ」、メシャクには「ミシャエル」、アベデ・ネゴには「アザルヤ」というイスラエルの名前がありました。しかしバビロンで教育を受けるにあたり、バビロン風の名前が付けられたのです。国が滅び、親元を離れて異教の地に連行され、名前を変えられ、と多難な青春を過ごすことになった三人。しかし彼らは、自らの造り主である神さまを第一に生きようとしました。そのような彼らを神さまは祝福してくださいました。神さまはどのような環境の中にあっても祝福することのできるお方です。
 神さまは、異教の国であるバビロンの王によって、彼らを祝福してくだいました。イスラエルの国を再興し、彼らを元通りの生活に戻す、という方法ではなく、異教の地において、異教の王によって祝福する、という方法で祝福されたのです。どのような環境のなかに置かれても、神さまを第一にして生きるならば、そこが祝福の場、神の国、となるのです。

「1、ここも神の御国なれば あめつち御歌を、歌いかわし、岩に樹々に、空に海に、妙なる御業ぞ現れたる。
・・・
3、ここも神の御国なれば、よこしましばしは ときを得とも、主の御旨の ややに成りて、あめつち遂には、一つとならん。」(讃美歌90)

 この三人はダニエルと共に選ばれた若者たちでした。しかしダニエルが王の夢の説き明かしをしたことから、ダニエルとこの三人は少し違う道を歩むこととなりました。それ以降、この三人は、いつも一つとなって生きるようになりました。異教の地においての「仲間」となりました。

「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(伝道者4・12)

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18・20)

「そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。『われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。』彼らは王に答えた。『王様、そのとおりでございます。』すると王は言った。『だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』」(ダニエル3・24,25)

「イエスが羊を牧するようにと言われる際、素直に従う羊の大群を導く、勇ましい、孤立した牧者を思い浮かべることを望まれていません。イエスはさまざまな仕方で、宣教の務めとは他の人と共有すべきものであり、その人たちとの相互の経験であることをはっきりと示しています。
 何よりもイエスは、十二弟子を二人ずつに分けで遣わしました。
・・・
道連れがいる旅と一人旅では、まったく根本から異なってきます。一人でいるとき、イエスに真に忠実であることはとても困難だということです。
 私には、一緒に祈ってくれる兄弟姉妹が必要です。身近にいて、霊的な任務について共に語り、さらに、思いと心と体を清く保つようにチャレンジしてくれる兄弟姉妹が必要です。しかし、はるかに重要なことは、いやすのはイエスであり私ではないということです。真理の言葉を語るのはイエスであって、私ではないということです。イエスが主なのであり、私ではないということです。
 これは、他の人と共に神の贖いの力を宣べ伝えるとき、とても明瞭なものとなります。実際、他の人と一緒に働くときはいつも、自分の名で来たのではなく、私たちを遣わされた主イエスの御名で来たことを人々はたやすく認めます。・・・」(ヘンリ・ナウエン、『ナウエンと読む福音書―レンブラントの素描と共に―』、マイケル・オラーリン編、あめんとう、2008年、73頁f)