主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました

静まりの時 第二テモテ4・16~18
日付:2023年09月26日(火)

16 私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。
17 しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。こうして私は獅子の口から救い出されたのです。
18 主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
(第二テモテ4・16~17)

 「私の最初の弁明の際」。これがいつであったのか諸説あるようです。弁明というのは、言い開きをする、ということですから、パウロは言い開きをしなければならない状況に置かれたということ。そしてその時に、だれも自分を支持してくれず、みなが自分を見捨ててしまった、とここで振り返り若い伝道者テモテに語っているということ。誰も支持してくれない中に弁明しなければならない。伝道者にはそのような時がある、ということを伝えています。
 パウロの弁明を聞く側に立って考えてみるならば、もともと迫害者であったパウロの話なのですから、それの真偽を確かめるということでしょうし、いきなり支持をするということは難しいことでしょう。だれも支持しなかった、みなが見捨ててしまった、ということも無理のないことだったのかもしれません。
 パウロはそのようなことを振り返りつつ、その責任を彼らが負わせられることがありませんように、と願いました。
 しかしそのような「支持されない時」のさなかにも、「しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」と振り返っています。どんな時にも主イエスさまはともにいてくださった、そばを離れずにともに立ち上がっていてくださった、と。
 そのように、たとえ全世界が敵になったとしても、主はともにいてくださり私の味方となって立ち続けてくださったのは、「それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした」。
 主がともにいて下った理由はただ一つ。福音宣教のためであった、と言います。いたずらで、ときによこしまな「私の主張」を守るために、主はともにいて立ち上がっていてくださったのではありません。パウロを通して福音が語られる、みことばが余すところなく宣べ伝えられるためであった、というのです。
 迫害や試練の中で、伝道者が守られるのは、ただ御言葉が宣べ伝えられる、ということを主がお望みになっておられるからである、というのです。「こうして私は獅子の口から救い出されたのです」。逆の言い方をすれば、御言葉の宣教に立ち続けているならば、主の守りはそこにあり、その守りは完全である、ということでしょう。「主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます」。たとえ地上ではその守りが完全でないかに見えることがあっても、天国への希望は変わらない、ということでしょう。

 ですからこの言葉は、すでに語られた4章1節からの御言葉につながります。

1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
(第二テモテ4・1~6)

 御言葉をまっすぐに語り続ける限り、主は変わることなくともにいて、ともに立ち、力を与えつづけて下さいます。