静まりの時 ルツ1・16,17
日付:2023年09月27日(水)
ルツは言った。
「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」
(ルツ1・16,17)
共同訳2018では
しかしルツは言った。
「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰るなど そんなひどいことをさせないでください。あなたが行かれる所に私は行き あなたがとどまる所に私はとどまります。あなたの民は私の民 あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に そこに葬られたいのです。死に別れでなく、私があなたと別れるならば主が幾重にも私を罰してくださいますように。」
(ルツ1・16,17)
ナオミはルツに、自分と別れて新しく生きるようにと勧めます。しかしルツはそのように「仕向けないでください」と言い、自分はどこまでもついて行くと言い張りました。ルツはナオミと別れることを「そんなひどいこと」(共同訳)とまで言っています。
「もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように」は、少しわかりにくいのですが、共同訳を見ると「死に別れでなく、私があなたと別れるならば主が幾重にも私を罰してくださいますように」となっていて、死別以外では絶対に別れることはないという意味だと思います。
とにかく、ナオミと別れることなど考えられない、どこまでもついて行く、それが私の生きる道である、それ以外にはない、とルツは言いました。「ナオミは、ルツが一緒に行くと決意を固めているのを見て、それ以上言うのはやめた」(1・18)。こうしてナオミとルツの二人は、ナオミの故郷に帰りました。「二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた」(1・19)。
ベツレヘム。やがて神の独り子がお生まれになる町。神さまが人類を救うための壮大なご計画を開始される地上の町の名前がここに記されています。その救いの計画の準備はすでに始まっています。神さまは着々とご自身の計画を進めておられます。
「ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。・・・ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、『ナオミに男の子が生まれた』と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。・・・」(4・13~22)
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ5・2)
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(ルカ2・1~4)
「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。』」(マタイ2・1,1)
旧約聖書は39の書物によって成り立っていますが、その多くには出エジプトの出来事がさまざまな形で記されています。しかしこのルツ記にはそれがありません。神さまの救いの御業である出エジプト。そのユダヤの民にとって最も大切な民族的記憶が記されていない書物なのです。しかし出エジプト自体も指し示している最も重要な救いの御業、イエス・キリストの救いの御業、その胎動が記されています。
その御業に大きな役割を果たしたのは、夫を亡くした一人の異邦人の女性でした。神さまは、ご自身の御業をなさるのに、強大な権力を持つ王でも、この世のあらゆる知識を持つ学者でも、さまざまな福祉事業を展開するエキスパートでもなく、悲しみの中にあった一人の異邦人の女性を用いられたのです。
ルツのナオミへの決意の言葉は、ただ姑について行くということではありませんでした。「あなたの神は私の神です」。ルツの信仰が語られています。神さまは、悲しみの中にああった一人の異邦人の女性をお用いになられたのですが、それは何よりも彼女の信仰を用いられたのです。
やがて神さまの救いのご計画の歯車が音を立てて回り始めた時、神さまは御使いガブリエルを一人の処女のところに遣わされました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ1・28)。
まだ10代半ばと言われたマリア。彼女は戸惑いながらも信仰の決意を語りました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)。
いまも神さまは、どんなにこの世から見て小さな存在であろうとも、自らのすべてを神さまにゆだねる、へりくだった者を用いて、ご自身の御業をなそうとされます。
「子よ、何よりもまず、わたしたちは神のご計画を知らないのですから、自分で自分を支配しようとせず、神に委ねるべきです。これこそ、わたしたちが今何にもましてすべきことです。あなたが、心配事を神に委ねようとせずに、自分が思いつく人間的な論理によって判断しようとするなら、心の苦悩に陥ってしまうからです。ですから、相反するいくつかの思いがあなたの胸を締めつけるとき、神に向かってこう叫ぶべきです。『主よ、あなたがお望みになるとおりに、またあなたがご存じのとおりに、問題を片づけてください」。
(ガザのドロテオス)