年老いて 白髪頭になったとしても

静まりの時 詩篇71・14~19
日付:2023年09月20日(水)

年老いて 白髪頭になったとしても
神よ 私を捨てないでください。
(詩編71・18)

 健康で長生きすることは、誰もが願うことだと思います。また高齢者が健やかに生きていてくださるということは多くの者への励ましであり、素晴らしいことです。
 しかしこの詩篇の著者は、自らの老いをあまり積極的にはとらえていないようです。老いて白髪頭になれば見捨てられてしまうと恐れています。その恐れはどこから来るのか。

 老いることで、若い時にはできたことができなくなってしまう。社会や共同体が、いわゆる「できる人材」を求めているとすれば、年老いたものは求められない存在となってしまうかもしれません。恐れは、そんな社会のありようから生まれているのかもしれません。それを敏感に感じ取ってしまう者にとってはつらいことです。
 ではいつまでも若い時のように行動できるのか。社会の期待に応えることができるのか。例えば高齢者がいつまでも自動車を運転していていいのか、というとそうではないでしょう。いつかは、できない自分、を受けいれなければなりません。
 では、できない、という状態がやってくれば、それは、見捨てられる、ということになるのか。そこが問題なのだと思います。できない、という状態であっても、変わることなく受け入れられている、という安心感が、社会や共同体にあれば、素晴らしいことなのだと思います。

 聖書の神さまは、できる人材だけを求め、そうでなくなると見捨ててしまわれるようなお方ではありません。できるできないにかかわらず、私たちを愛しておられ、その存在を大切に考えていてくださる、それが聖書の神さまです。年老いて、白髪頭になっても、この神さまだけは見捨てることをなさらないのです。

 神さまはできるできないにかかわらず、私たちを見捨てることをなさらない。そのようなことを感じることのできる共同体づくりは大切でしょう。だれもが安心して、ただいる、ということができる居場所づくり。それは強い者、できる者によってではなく、弱い者、できない者によってこそ造られるのだと思います。できないといことを許容する、というだけにとどまらず、できない、ということを積極的に考えていくこと。教会が誰も見捨てられることのない共同体であるために、弱い者、できない者の存在は欠かすことのできない大切なことのです。