静まりの時 ヨシュア記24・25~28
日付:2023年09月16日(土)
25 ヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置いた。
26 ヨシュアはこれらのことばを神のみおしえの書に記し、大きな石を取り、主の聖所にある樫の木の下に立てた。
27 ヨシュアは民全体に言った。「見よ、この石は私たちに対して証しとなる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、これはあなたがたに対して証しとなる。」
28 ヨシュアは民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。
(ヨシュア24・25~28)
「シェケムの契約」。約束の地の各部族への割り当てがなされ、いよいよ各部族が自分の相続地に出発するとき、ヨシュアはあらためて民に問いました。
14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。
15 主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。
(ヨシュア24・14,15)
民は答えました。
21 民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」
22 ヨシュアは民に言った。「主を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。」彼らは「私たちが証人です」と言った。
主に仕えると語った民の、その証人は民自身である、と語られています。しかしその後でヨシュアは大きな石を取り、主の聖所にある樫の木の下に立てて民全体に言いました。「この石は私たちに対して証しとなる」と。
「この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである」。石には耳がありません。聞く、とはいったいどういうことでしょう。面白い表現です。石を擬人化しているのでしょうか。
証しの「証」という言葉は、私たちの生活の中にいくつか発見することができます。免許証、保険証、学生証、会員証、公正証書、証言、証人、証明、検証、考証、実証、認証、論証、確証、反証、物証、証券・・・。
事実を明らかにするもの、ということですから、それ自体がゆるぎない、永続的なもの、変化しないものでなければなりません。「石」というのは、今も昔も最適なものなのかもしれません。散歩をしていると、時折「碑」を見かけますが、たいてい石でできています。
イスラエルの民が、まことの神さまのみを神とし仕えるとの契約。その確かな証しを石として置いたということ。民はその石を見るたびに、自分たちがサインした契約を思い起こすということ。確証を自分のうちにではなく、自分の外に置く、ということ。
「キリスト者は、説教的聴従、洗礼的実存、聖餐的敬虔をもって神の救済史を担う光栄に浴している」(芳賀力、『神学の小径 Ⅴ』、151頁、154頁)
説教的聴従。説教を聞く、ということにおいて神さまに従うということ。洗礼的実存。洗礼を受けたという事実において自らが神の民であるということ。聖餐的敬虔。聖餐を祝うことにおいて神さまを敬い畏れ愛するということ。イスラエルの前に立てられた石のように、聖書と洗礼・聖餐(サクラメント)が、確かな証しとして与えられています。
今日から出かけますので次週の水曜日まで投稿できないと思います。