静まりの時 エレミヤ12・1~3
日付:2023年09月01日(金)
「主よ。私があなたと論じても、
あなたのほうが正しいのです。
それでも、私はさばきについて
あなたにお聞きしたいのです。
なぜ、悪者の道が栄え、
裏切りを働く者が
みな安らかなのですか。
(12・1)
神さまは全知全能であり、正しいお方です。そして審判者です。そのような神さまが存在しておられるならば、どうして「悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのか」。私たちの現実は、単純に公平である、とは言えません。正直に生きていれば幸せになるのかと言えばそうでもありません。悪事を働けば不幸がやってくるのかと言えばそうでもありません。正直に生きても不幸はやって来ますし、悪事を働いても幸せにみえる人生はいくつもあります。いっそのこと、神さまなどおられない、としてしまえば、とりあえず、悩まされなくても済むのかもしれません。
しかし神さまはおられるのです。なぜ、悪者の道が栄えるのか。この疑問、そして悩みは、現実から目をそらさずに生きようとしつつ、神さまを信じている者ならではの、疑問であり悩みなのだと思います。なぜ正しい者に不幸がおこり、悪者に幸せがやってくることがあるのか。なぜ幸いは正しい者にやってくる、悪者には常に不幸がやってくる、とならないのか。
ただこの疑問には、まず考えなければならないことがあります。
私は、正しい者なのか、それとも悪者なのか。もし私が悪者であり神さまが公正なお方であるならば、アナニアとサッピラ(使徒5章)のようにたちどころに審判が下って、こうして生きていることなどできないのではないか。こうして生きているのは神さまの憐れみ以外の何ものでもないのではないか。現実の不公平は、罪人にとっては神さまに感謝しなければならないことなのではないか。
さて、その上で、やはり正しく生きようとする者にとっては、神さまが公平である、ということは、大切なことです。不公平が当たり前のことであるとなると、正しく生きようとする意味を見失ってしまいます。不公平な現実を受け止めながらも、善に生きようとする力は、最終的な審判、再臨への希望から生まれるのだと思います。
正しく生きようとしても、完璧なことはだれも不可能です。ですから、今審判が下されていない、ということは、それは、猶予期間、なのであって、再臨を希求しつつ、少しでも善に生きようとする時なのです。きよめられていくための大切な時なのだと思います。
どうして悪者の道が栄えるのか、と疑問をぶつけながら、しかし神さまがやがて本領を発揮してくださる時がやってくることを信じて、少しでも善に生きようとする者でありたいと思います。