それによって、自分が神のうちにいることが分かります

静まりの時 第一ヨハネ2・3~6
日付:2023年08月31日(木)

3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。
4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。
5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。
6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。
(第一ヨハネ2・3~6)

 神さまの命令、戒め、ことばを守る、イエスさまが歩まれたように歩む、ということと、神さまを知っている、神さまがともにいてくださる、神さまがうちにいる、神さまのうちにとどまっているということ。この二つのことは、切っても切れない間柄にある、ということです。

 神さまの命令とは

「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(第一ヨハネ3・23)

 このことはイエスさまご自身から伝えられたことでした。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ福音書13・34,35)

 神さまについての知識がある、神さまのことをよく知っている、というと、深い神学的な知識があり、聖書を暗証し、正しく解釈し、教会の歴史についても造詣が深い、ということも大切かもしれませんが、それ以上に、互いに愛している、ということが、神さまを知っているということなのだ、といいます。
 また神さまがともにいる、神さまがその人のうちにいる、神さまのうちに自分がいる、というと、神秘的な体験やいわゆる霊的な現象といったものを考えがちかもしれませんが、それよりも、互いに愛している、ということこそ、神さまがともにいてくださる、ということなのだ、というのです。

 互いに愛し合う。イエスさまのように歩む。それは誰かに命令することではありません。自分は果たして、神さまを信じている、ということと、隣人を愛している、ということが一つになっているだろうか、と自問することです。そうして愛のない自分自身に出会い、そこから目を上げて、イエスさまを見るのです。イエスさまにむかって、愛のない私を憐れんでください、と祈るのです。

 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
(ルカ18・9~14)

 真理と謙遜が一つであるように、愛と真理、そして謙遜は一つなのです。謙遜のない愛は愛ではなく、謙遜のない真理は真理ではないのです。

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道端に大きなキノコがありました。オニフスベというそうです。
翌日に見ると、胞子をまいた後のようでへしゃげていました。