静まりの時 エレミヤ31・31~34
日付:2023年08月23日(水)
31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
(エレミヤ31・31~34)
まもなく「その時代」「そのとき」がやってくる。その時には、神さまは「イスラエルの家」「ユダの家」と「新しい契約」を結ばれる・・・。新しい契約とはいったいなんであるのか。
まず、その契約は、以前に結ばれた契約、すなわち、出エジプトの時に結ばれた契約、すなわちシナイ山での契約とは違うものである、といいます。
どのように違うのか。
今度の新しい契約は「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」。以前の契約は石の板に書き記されたものであり、契約の箱の中に入れられ、神殿に安置されたものでした。しかし新しい契約は、一人ひとりの中に置き、彼らの心に書き記されるものである、といいます。そうして、神さまはイスラエルの神となり、イスラエルは神さまの民となる、と。
さらに、この新しい契約においては、「それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない」といいます。それは「彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ」と。
新しい契約は、人によって教えられるものではなく、神さまが教えてくださる、そうして身分の違いを超えて、みなが神さまを知るようになる、といいます。
そもそも律法とは、キュウリの手、みたいなもので、キュウリに手をしなければ、地を這うように育ってしまい、実を結ばず、たとえ結んだとしてもそれ自体が腐ってしまうでしょう。手をすることによって、立派なキュウリができます。それと同じように、人間も律法がないと、自分勝手に人生を歩んでしまい、結局実を結ばず、自分自身の腐ってしまうのです。自分のためにも、世界のためにもより良い人生を歩むために、律法が与えられました。キュウリにとっては多少窮屈に感じることがあるかもしれませんが、立派なキュウリが育つための手なのです。私たちもより良い人生を歩むための律法だったのです。
しかしこの律法によって、社会に格差が生まれて、互いの間に裁き合いがおこりました。そこでは愛の神さまが、格差を生み出し、互いにさばきあうための道具にされてしまったのです。こうして律法は無力となりました。どんなに立派なルールがあっても、それを尊敬し、それを順守していこうとする力や愛がなければそのルールには力がないのです。
神さまは、新しい契約をお立て下さいました。このエレミヤの言葉は、旧約聖書において特に先進的なのだと思います。新しい契約は、主イエスさまの十字架と復活において実現しました。
「彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
新しい契約が力を持っているのは、神さま自身がその契約に生きるようにと力を与えて下さるからです。それは赦しの力です。恐ろしい顔をして、赦さないぞ、と脅かすことによって律法に生きるようにとされるのではなく、神さまご自身が自らを私たちに明らかにしてくださり、神さまご自身が赦し、もう思い起こすことはない、との和解の手を差し伸べてくださる。その神さまの愛と赦しに出会って、人間は律法に生きる者となる、していただけるのだ、というのです。
キュウリにたとえると、あらぬところにつるが伸びてしまう時に、農夫がやさしく愛の手を述べて、キュウリのつるをキュウリの手にそっと結び付けてくださいます。キュウリは安心して成長することが出来ます。キュウリはひたすら農夫を信頼して、農夫の御手に委ねていればよいのです。同じように、私たちもイエスさまを信じてもなお罪びとであることに変わりはありません。キリスト者は、罪赦された罪びとなのです。ですから自分勝手に生きようとしてしまいます。しかしイエスさまは私たちを悔い改めに導いてくださいます。そして神さまの御心に生きることが出来るように助けてくださいます。良い実を結ぶ者としてくださるのです。私たちがすべきことは、できるだけ柔らかいつるとなることです。農夫の成すがままに自らを柔らかくしていることです。
「しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。」(ヘブル8・6)
「食事の後、同じように杯を取って言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」(第一コリント11・25)」
「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」(第二コリント3・3)