静まりの時 イザヤ52・7~10
日付:2023年08月22日(火)
7 良い知らせを伝える人の足は、
山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」と
シオンに言う人の足は。
8 あなたの見張りの声がする。
彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。
彼らは、主がシオンに戻られるのを
目の当たりにするからだ。
(イザヤ52・7,8)
先日の日曜日の教会学校ではアブラハムの召命のところを学びました。主がアブラハム(アブラム)を召されたとき、語られた言葉は以下の通りです。
1 主はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、
あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
あなたを呪う者をのろう。
地のすべての部族は、
あなたによって祝福される。」
(創世記12・1~3)
主がアブラハムを召された目的は、アブラハム自身が祝福とする、ためでした。それはアブラハムが、名声を得て経済的に豊かになり子孫にも恵まれるということが含まれていたのですが、それ以上に、アブラハムを通して世界を祝福する、ということでした。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」。
他者を祝福する者となる、という祝福。これがアブラハムに与えられた何よりの祝福だったのです。そのために神さまが語られたのは、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」ということでした。他者を祝福する者となるために、「自分」を後にして出発する、ということをアブラハムに命じられたのです。自分に固執する者は他者を祝福するのとはできない。他者を祝福する者は自分を捨てる者である、ということでしょう。アブラハムは主が示される地へ行きました。この時アブラハムは行先については知らされていなかったと言います。「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました」(ヘブル11・8)。行先が大切だったというよりも、とにかく「出発する」ということが大切だったのです。
私たちはいつも自己中心です。自分を後にして出発することが出来ません。しかし私たちもアブラハムと同じように、他者を祝福するために召されています。神さまは、私たちにも「自分」を後にして出発することをお求めになられます。自分を後にして出発する者を神さまは、他者を祝福する者として用いようとなさいます。
「良い知らせを伝える人の足は、
山々の上にあって、なんと美しいことか。」
良い知らせ。この場合、グッドニュースとは、戦いの終わりを告げる伝令のことでしょう。もう戦いは終わった、平和の時がやってきた、と告げる知らせ。戦いの苦しみの中にある者にとってはなんと幸いな知らせ、言葉でしょう。
この知らせを伝える者は、ものみやぐら、見張りのところに立っています。民に先立って「主がシオンに戻られるのを目の当たり」にしています。見張りは、主が来られるのを見て喜んでいます。その喜びにあふれて、いまだそれを見ることが出来ない民に向かい、主が来られた、と語ります。民はその喜びの声に喜びます。
主にある者は、このものみのやぐらに立っているようなものです。二千年の昔、イエスさまがこの地に来られて十字架と復活の御業をもって、救いを完成してくださいました。そうして実現された神さまとの和解の言葉を、いまだ神を知ることのない人びとに向かって語ります。喜びにあふれて語ります。もう戦いは終わった、と。
そしてさらに主にある者は、再び来られる主を見ています。主は再び来られる、マラナタ、と喜びあふれて世界に向かって語ります。再臨の祝福を告げ知らせる者としていただいたのです。
「『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は」。
あなたの神は王である、世界を統べ治めるお方である。この方が来られた、もういたずらな戦いに戦う必要はない、平和、幸い、救いがやってきたと語るのです。
「この自由と平等を特にキリスト教的な方向性において結びつけるのが平和である」。(芳賀力、「第14章 キリスト者の自由(4)ー国家と政治」『神学の小径5』、キリスト新聞社、2023年、315頁)
自由は大切です。私が自由に考え、自由に語り、自由に行動することは大切なことです。個性が尊重され、互いの違いが大切にされることは大事なことです。しかしまた平等も大切です。分け隔てなくみなに同じ環境が整えられることも大切なことです。しかしこの二つのことは単純に一致することではない、と言います。
「自由と平等とは、社会的実現の過程において必ずしも単純に一致する理念ではないからである。個人の絶対的自由の主張は、しばしば格差社会の肯定と社会的弱者の圧迫に終る。逆に排他的平等主義は個人の自由を圧迫し、画一的全体主義を招きやすい。・・・そこで我々はここで、平和的共存という第三の基準を掲げるのである。この基準に照らして自由と平等が追求されるならば、自由は共存における自由として、また平等は異なる個性を平和的に尊重する平等として、新たな方向づけを獲得することになる。」(前掲書、314頁)。
平和がやってきた。その平和は、神さまは王となってくださることによって築き上げられる平和である、と喜びの知らせは告げられます。自由も平等も大切ですが、いずれも平和によって方向づけられなければ、やはり戦いが起こることでしょう。救われるとは、この神が王となってくださった、ということなのです。それは自分の心の王座に座っていた自分が立ち上がりその椅子を後にして、まことの王をその椅子にお迎えすることです。この救いに与った者、すなわち自分を後にして出発する者こそ、他者を祝福するという大いなる祝福にあずかる者となります。
「キリストの和解の業の中に新しい人間性の基礎づけを見る者は、和解の使者(第二コリント5・20)であり、平和を作り出す者(マタイ5・9)として、異なる他者との共存の中で自由と平等を追い求める者となる。」(前掲書、315頁)
平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5・9)