静まりの時 第一コリント16・21~24
日付:2023年08月21日(月)
21 私パウロが、自分の手であいさつを記します。
22 主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。
23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
24 私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。
(第一コリント16・21~24)
新約聖書は、27巻ですが、福音書、使徒の働き、黙示録以外はすべて手紙です。ルカの福音書と使徒の働きも手紙に加えてよいかもしれません。
当時の手紙は、筆記具が貴重だったからか、差出人が口述し、それを筆記する人がいて、書かれたとのこと。このコリントに生きた信徒への手紙もそのように書かれたようです。ですから手紙の最後になってパウロが自分の手であいさつを記すという言葉がでてきています。ここまで口述筆記をしてきたが、最後のあいさつだけは自分で書かせてほしい、ということでパウロは書きました。
そのあいさつの冒頭が「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください」は、ちょっと戸惑う言葉です。これがあいさつだろうか、という気がします。
この第一コリントには、聖餐式に読まれることになった言葉(11章13節~)が記されています。おそらく書き送られた手紙は、コピー機や複写の技術のない時代ですから、一通だけでしょう。それを読むとなると、礼拝において読まれたことでしょう。礼拝において読まれるということは、それが説教となったということでしょうし、また聖餐式の前に読まれたということでもあるでしょう。この言葉は聖餐式のまえに読まれたのであろうと、とある先生は書いておられました。聖餐式において「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」(11・27)と読まれた言葉と重なるというのです。
主を愛さない者、を断罪するような言葉ですが、それはまた主を愛する者となるように、との招きの言葉なのだと思います。今まで長々とこの手紙を書いてきたが、結局のところ主を愛することが信仰生活のすべてなのだ、ということでしょう。
「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように」。礼拝の終わりに語られる祝福のことばは、第二コリントの最後の言葉が多いですが、おなじ「主イエスの恵み」とあります。恵み、とは、何か自分にとって都合の良いことが起こる、ということではなく、主イエスさまの十字架と復活のことです。神さまからの和解の言葉です。何はなくても、神さまからの和解の言葉が、私たちの恵みなのです。
「私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。「私の愛」という言葉をパウロは使っています。これは他にはあまりないようです。パウロは自分が誰よりも愛深くてその愛があなたがたすべてとともにあるように、と言っているのではないでしょう。パウロは誰よりも自分が愛のない者であるかを知っていたことでしょう。しかしその愛のない者であっても、「キリスト・イエスにあって」愛を語る者にしていただけるのです。イエスさま抜きでは愛がありませんが、イエスさまを愛する、そうして父なる神さまを愛する、主を愛することで、私たちも愛する者にしていただけるのです。
原文ではこの手紙の最後の言葉は「キリスト・イエス」となっています。「イエス」で終わっています。画竜点睛のように、この一つの言葉でコリントの手紙が天に舞い上がるようです。