静まりの時 民数記35・9~15
日付:2023年08月18日(金)
10 「イスラエルの子らに告げ、彼らに言え。
ヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、
11 あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。
12 この町々は、復讐する者からあなたがたが逃れる場所となる。殺人者が、さばきのために会衆の前に立たないうちに死ぬことのないようにするためである。
(民数記35・10~12)
逃れの町とは、誤って殺人を犯した者が、復讐する者から逃れる町とのこと。そのような逃れる場所を設ける目的は、誤って殺人を犯した者が、さばきのために会衆の前に立たないうちに死ぬことのないようにするためである、と。復讐する者から逃れるということですから、死ぬというよりも殺されるというべきかもしれません。あるいは、復讐する者として想定されるのが、殺された者の関係者だけでなく、殺人を犯した者自身が自責の念にかられて自ら命を絶つということも考えられたのかもしれません。その場合は、死ぬでよいのかもしれません。
いずれにせよ、会衆の前でのさばき、共同体における裁判にかけずに殺されてしまうということ、何かの判断が下されてしまうということを避けようとしました。
古代の刑罰の方法として旧約聖書にも記されている「目には目を、歯には歯を」という一見残酷な刑罰は、限定報復と言われます。人間は一発たたかれると10発ぐらい返さないと気が済まないという罪びとなので、過剰な報復を戒めた、ということです。それは社会正義を守る、社会を安定させる、ということが目的だったのだと想像します。
この民数記の個所に続く聖句も、殺人を犯した者を死刑とする事細かなルールが記されていますが、それもいたずらな復讐を戒めたとも読むことが出来るのではないかと思います。
11節に「自分たちのために逃れの町とし」という言葉があります。「自分たちのために」は共同訳2018にはないのですが、新共同訳や口語訳には新改訳2017同様、訳出されています。逃れの町は、殺人を犯してしまった者のためだけではなく、共同体のために設けられた、ということが想像されます。
誰でも殺人者になる可能性があるということかもしれませんし、殺人を犯した者がだれであれ、公平な裁きが行われるということが、共同体全体の平和を築いた、ということかもしれません。
復讐心の背景に、怒り、があると思いますが、この怒りというのは曲者です。人間である限り怒るということはごく自然な感情の発露だと思います。少しサッカーの審判をしたことがありますが、選手がファールをしたときに吹く笛には怒りを込めなさい、と教えられたことがあります。それがないと試合が荒れる、と教えられました。しかし怒りの感情がエスカレートして、過度な報復を生んだり、的外れな裁きが下されてしまう、ということも起こります。怒りのあまりやってしまったこと、口走ってしまったことは、後で考えると恥ずかしくなるようなことも多いものです。
ですから何かが判断されてしまう場所には、できるだけ冷静な判断ができるような環境整備が必要なのだと思います。たとえば、言葉は、ですます調にする、とか、ため口は使わない、呼称には、さん、をつけるとか、発言には時間制限を設ける、想像に元ずく発言はしない、問題となっていること以外のことは話題としない、決めつけるような発言は避ける、無言の圧力が欠けられるような広告などは排除する、などなど。テレビで裁判の場面を見ていると、法律家たちはそのような配慮をしているように思います。この辺は素人ではなかなか難しいことですね。
逃れの町は、殺人者にとっても、復讐心にかられる者にとっても、また共同体にとっても、そのような一時保留の場所みたいなところが大切なのだと思いますが、それだけではなく、私たちの普段の生活にも大切なような気がします。
五木寛之さんだったかと思いますが、誰かの発言を、受け入れないで受け止める、ということを言っておられたような・・・。受け止める、ということは、とりあえず受けるのだが、そこで止めておくこと。受けて、その後に、入れてしまおうとするから無理が起こる。受けるけれども、入れない、そのまま止めておく。それが大切だということのようです。
マインドフルネスや観想的生き方で、ものごとをありのままに見る、ということがいわれます。私たちはすぐに判断したくなるのですが、判断せずに、そのままを受け止める、のです。眺める、という言い方もされるでしょうか。
判断する、ということは、そもそも自分が裁判官になる、ということです。しかし私たちはイエスさまを信じたその日から自分が裁判官になることを止めました。裁判官はイエスさまですから、イエスさまのところに受け止めたものを降ろせばよいのだと思います。イエスさまは、私のたましいの逃れの場所みたいなお方なのではないかと思います。