彼を奴隷として仕えさせてはならない

静まりの時 レビ記25・39~46
日付:2023年08月17日(木)

もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。
(39)

共同訳2018では

「もしあなたのそばで、あなたの同胞が貧しくなり、あなたに身売りをするなら、奴隷の仕事をさせてはならない。」(共同訳2018、レビ記25・39)

 奴隷の仕事をさせてはならない、とありますので、その仕事内容が奴隷の仕事であってはならない、ということのようですが、新改訳や新共同訳では「奴隷として仕えさせてはならない」(新改訳)、「奴隷として働かせてはならない」(新共同訳)とありますので、その立場が奴隷のようなことになってはならないというようなことでしょうか。

 続く聖書個所を見ると、同胞、つまりイスラエルの人びとは奴隷としてはならない、ということで、イスラエルの人びと以外は奴隷にしてもよい、という感じです。

 1990年ぐらいにそれまでの東西冷戦状態に変化が起こった時、これからは民族主義が台頭する、みたいなことをテレビで言っていた人がいました。実際はどうであったか分かりませんが、90年代からの各地で起こった民族紛争を思うと的を射ていたのかもしれません。
 同胞である人と同胞でない人。この区別が差別を生み出し、紛争へと発展していく、とすれば、人類はいまだこの問題を解決できていないということです。
 「栄光のランナー 1936ベルリン」という映画がありますが、これには、ナチス・ドイツのアーリア民族の優越性を示そうとして他の民族を差別するようすが描かれています。これに反対したアメリカ国内ではオリンピックボイコットの動きが起こります。それも描かれていますが、そのアメリカ国内で白人以外の人びとへの差別の様子も描かれています。

 異質なもの、に対して、恐怖や嫌悪感をもつのは、自然な感情なのかもしれませんが、それが差別につながるとすれば、異質なものへの理解が深まるための学習と訓練によってのり越えていくべきだと思います。差別をする、というのは、損をさせること、差別される、というのは損をさせられた、ということだ、とある方は言っておられました。とっさに沸き起こる感情はコントロールが難しいのかもしれませんが、できるだけ公平な社会を築いていく努力と工夫が必要なのでしょう。朝ドラ「らんまん」で、主人公が植物に対して分け隔てなく接する姿には教えられることがあるようです。

 同胞と同胞でないものを区別して、そこに差別を生み出してはならない、ということを考えたのですが、では、このような聖書の個所を私たちはどのように読むのでしょうか。

 同胞である、ということは、ここではイスラエルのことです。イスラエルというのは、エジプトで奴隷であった民がモーセによって解放された人びとのことです。神さまはこのイスラエルを神の国として、世界を祝福する民と召しだされました。今日、この神の国イスラエル12部族は、12人の使徒から始まった教会のことです。罪の奴隷からイエスさまによって解放されたキリスト者の群れ。それが新しい「同胞」でしょう。
 キリスト者が新しい同胞である、とすれば、そうでない人たちとの間に壁を想定してしまいがちですが、いまキリスト者でない方が、この先永遠にキリスト者にはならないと誰が言いきることが出来るでしょうか。いまキリスト者である、ということは、たまたま今の時点でキリスト者であることが明らかにされているだけであって、私たちは時間から解放されて世界を見ることが出来ないのですから、この一方的な神さまの恵みが、いまはキリスト者でない方にはまだ注がれていないだけなのです。そう考えると、私たちはすべての人がキリスト者になることを望んでいるのですから、時間差はあるにしても、すべての人を「同胞」と考えなければならないのではないか、と思います。
 となると、同胞を奴隷にしてはならない、ということは、すべての人を奴隷にしてはならないということではないかと思います。

 このような理解が、20世紀になっても、またいま21世紀になっても深まっていないことを私たちは恥ずかしく思わなければならないのだと思います。
 ということで、まずは異質なもの、自分の文化や習慣とは違ったものにどれだけ出会い、自分を変えていけるか、がこのような理解を深める一歩になるのではないかと思います。スポーツ界を見ると、そこにはすでに民族の壁、人種の壁などが超えられているように感じるものがあります。

 「奴隷として仕えさせてはならない」。レストランで客がお店の人に土下座させた、ということが報じられたことがありました。以前に、お客様は神さまです、などといったコマーシャルがあったように思いますが、お客様は神さまではないですね。そしてお店の人は奴隷ではありません。お店の人に向かってため口で話している人を見かけますが、親しみを込めてという場面では、気持ちのいいものですが、明らかに偉そうにしている人だと、なにか醜い姿を見たような気がしてしまいます。
 レストランの店員さんも、ガソリンスタンドの方も、お医者さんや看護師さんも、消防署の方も、学校の先生も、政治家も、タレントも、みんな、奴隷ではないのです。奴隷として仕えさせてはならないのです。『アンクル・トムの小屋』をちゃんと読まなければなりません。という私もちゃんと読んではいませんが・・・。