あなたがたはそれぞれ同胞に損失を与えてはならない

静まりの時 レビ記25・13~17
日付:2023年08月16日(水)

13 このヨベルの年には、あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰る。
14 もしあなたがたが、同胞に土地を売ったり同胞から買ったりするときは、互いに損失を与えないようにしなさい。
15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの同胞から買い、収穫年数にしたがって相手もあなたに売る。
16 年数が多ければ、それに応じてあなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じてその買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。
17 あなたがたはそれぞれ同胞に損失を与えてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、主だからである。
(レビ記25・13~17)

 ヨベルの年は、それまでの50年間に起こった変化を元通りにすることだと思いますが、それは単純になかったことにする、ということではないようです。土地を戻す場合に、無償で戻すのではなく、土地の価値に応じて売買がなされる、ということのようです。確かにそうでないと新しい不公平が起こりそうですし、この事業をスムーズに進めることは難しいような気がします。
 その際「同胞に損失を与えてはならない」という基本的理念が確認されています。

 何が公平であるのか、というのは難しいものです。自分は損をしたくないと思いますが、それだけではなく、誰かが不当に得をするということに我慢ならない、ということもあります。自分が損をしなければいいではないか、と思いますが、じっさいには誰かが得をしないように監視してしまう、ということが起こります。
 みんなが得をする、というのとは少し違って、みんなが損をしない、というのは奥が深いような気がします。それにはもしかしたらみんなが得をしない、あるいは得をしないという覚悟が必要かもしれません。

 その理由は「あなたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、主だからである」と言います。神さまへの恐れが、社会の倫理を守る根底にあるのです。神さまへの恐れ、それは畏れであり、敬虔です。

「キリスト者は、説教的聴従、洗礼的実存、聖餐的敬虔をもって神の救済史を担う光栄に浴している」(芳賀力、『神学の小径5―成就への問い』、キリスト新聞社、2023年、154頁)

「聖餐を受ける時、私たちは、自分が自分の力で生きているのではなく、生かされているのだということ、しかもそれは、単なる名も知れぬ超越的な力によってではなく、イエス・キリストにおいてご自身を示された神によって生かされているのだということを知る。そして社会的対面も面子も抜きにしてただ虚心坦懐、主の御手からパンとぶどう酒をいただく。そうすることで、私がパンと水で日々の命を支えられているのとまったく同様に、私はキリストの体と血のおかげで生きているのだということを味わい、この恵みに応答して生きたいと願う。それが聖餐的な敬虔(パイエティー)である。」(同、150頁f)

 聖餐式は、私たちの敬虔が養われるときです。