静まりの時 レビ記25・1~7
日付:2023年08月14日(月)
1 主はシナイ山でモーセにこう告げられた。
2 「イスラエルの子らに告げよ。
わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。
3 六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。
4 七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。
(レビ記25・1~4a)
神さまは、「6日間」で世界のすべてを創造されました。そして「7日目」に「休まれ」ました。これと同じように、人間には6日間の労働日と7日目の安息日が定められました(出エジプト20章、レビ記19章ほか)。さらにこれにならうように、6年間の労働と7年目の安息年が、今朝の個所に記されています。
この7年目には、
「あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。これは地のための全き休みの年である。」(4b、5)
つまり種まき、刈り込み、をしてはならないのです。またあなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない」のです。手入れをしたぶどうの木からの収穫は良いのか、と聞きたくなりますが、とにかく畑に対する労働を一切指定はならない、ということです。しかし続いて
「地の安息はあなたがたに食物をもたらす。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在住している居留者のため、また、あなたの家畜と、あなたの地にいる獣のために、その地の収穫はすべて食物となる。」(6,7)
「その地の収穫はすべて食物となる」というのですから、やはり収穫をすることになるようです。収穫をしてはいけないのか、それとも収穫をしてもよいのか、少なからず悩むところです。
新改訳で「主の安息を守らなければならない」(2)は、新共同訳では「主のための安息をその土地にも与えなさい」、共同訳2018では「地は主の安息を得なければならない」、と訳されています。新改訳では人間の戒めという意味が強調されているように思いますが、共同訳系は、土地、地、を中心にして訳されているように思います。
「私」を中心にして考えると、収穫をして良いのか悪いのか分からなくなるのですが、「土地」「地」を中心にして考えてみると、人間が収穫するにしても収穫しないにしても、いずれも、土地にとってそれが安息となるかどうかが大切なのかな、と思えてきます。
安息を得る、ということも難しいことですが、安息を与えるということも簡単なことではありません。土地、あるいはこの自然に向かって、今年はお休みしてくださいよ、と声をかけつつ、そこに実りがあるならば、それをいただく。生産性や効率を重視しての農作業はしない。産業としての農作業をしない。自分が食べるだけでそれ以上は収穫しない、ということ。また自然に対して大きなダメージを与えることになるならば、たとえ必要があっても可能な範囲で自粛するということでしょうか。
全き安息を地に与える目的は、生かされていること、を知るため、忘れないため、です。頑張った者の手にはより多くの祝福がある。逆に手の中に収穫が少ないのは、それは頑張らなかったからだ、というのは、短絡的な考えであるとともに、傲慢な考え方、強者、勝ち組の考え方である、ということでしょう。頑張ることが出来た、ということに、すでに与えられているものがあるのではないか。健康な体、努力することのできたことの諸条件は、たまたま与えられたものだったのではないか。いまこうして生きているのは、やはり生かされているからではないか、と。隣人の苦しみへの共感もそのようなところから生まれるようにも思えます。
そんな大切なことを思い起こさせてくれるのが、7年目の安息なのでしょう。連作を嫌う植物があると聞きますが、それもそういうことを教えてくれているのかもしれません。