これがあなたがたのなすべきことだ

静まりの時 ゼカリヤ8・12~17
日付:2023年08月12日(土)

16 これがあなたがたのなすべきことだ。
  あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、
  真実と平和をもたらす公正さをもって、
  あなたがたの門の中でさばきを行え。
17 互いに心の中で悪を謀るな。
  偽りの誓いを愛するな。
  これらはみな、わたしが憎むものだからだ。
  ──主のことば。」
(ゼカリヤ8・16,17)

 預言者ゼカリヤは捕囚後の回復の預言を語っています。神さまは平和を与えてくださいます。その平和のもとでイスラエルが成すべきことは、隣人に対して真実を語ること。真実と平和をもたらす公正さをもって、さばきを行うこと。互いに心の中で悪を謀らないこと、偽りの誓いを愛さないこと。
 戦争が終わり新しい時代が始まるとき、どのような国づくりをするのか。神さまはイスラエルに、真実、平和、公平、善、誠実といったものをその土台に据えるように語られたのだと思います。荒廃した土地へのインフラ整備、設備投資、それに伴う経済成長も大切ですが、それ以上に互いに真実を語ること、公正な裁きが行われること、悪を計画しない、約束事はきちんと守る、といったことは大切なことなのです。三権分立で、立法、司法、行政がそれぞれに抑制しあいながら国民の権利と自由を保障する国家の在り方も、それぞれに真実と公平、悪を謀らないという、各機関の中に善があること、それをささえるように個人の善があること、が欠かせないことになります。

 私たちがなぜそのような善の生き方を大切にしなければならないのか。そうすることが、機能的に効率が良いからか。功利主義、という言葉がありますが、社会の幸福が最大限に実現されるために理屈に合っているからか。たんにそうしたいからか。いずれも善を求める根拠になるかもしれませんが、聖書は「これらはみな、わたしが憎むものだからだ」と語ります。つまり神さまが憎まれることだから、という理由、根拠です。

 キリスト者の倫理的生き方の根拠は神さまへの愛です。神さまが喜ばれる道を選ぶ。逆に神さまが喜ばれない道を選ばない。そういう生き方の基準を、キリスト者はいただいているのです。ですから、神さまを知らないと、倫理的に生きることが難しいのです。神さまを知ることで、倫理的な道を学び、神さまを愛することで、その道に生きようとの願いが起こされる。それがキリスト者の生き方です。
 神さまを知ること、それはすなわちイエスさまを知ることですが、それは、礼拝において可能となります。また神さまを愛することも礼拝においてこそ実現します。それはまた礼拝を捧げることがなければ、倫理的な生き方に生きることはできない、ということです。
 愛はともに同じ時間を過ごし、共に食し、それぞれの心がふれあい交流するところに育まれます。神さまの前に立ち、心を注ぎ出し、御言葉を聴き、聖餐を祝うなかで、神さまへの愛は生まれ成長します。

 ただ何が真実であるのか、何が公平となるのか、という具体的なことにおいては、そう簡単なことではありません。いのちの問題、戦争のない世界、個人の経済的保証などなど。その都度、祈りつつ、謙遜をもって広やかで自由な議論をしつつ御心を求めていくことになります。

「御身の風のうちに。御身の光のうちに。
 その余のすべての、なんと卑小なることよ、われわれの、なんと卑小なることよ―そして、ただそれのみが偉大なるもののうちにいるとき、なんと幸せなことよ。」

(タグ・ハマーショルド、「(1957年)12月24日」、『道しるべ』、みすず書房、1967年、1999年、2010年、159頁)