静まりの時 マタイ17・14~20
日付:2023年07月28日(金)
それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。
「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエスは言われた。
「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
(19,20)
父に連れてこられたてんかんに苦しむ息子を弟子たちは治すことができませんでした。そこに「山上での変貌」のあとのイエスさまが帰ってこられました。父はイエスさまに近寄り、御前にひざまずき「主よ、私の息子をあわれんでください」と祈りました。イエスさまはすぐに息子を治してくださいました。
そのあとで弟子たちが「そっと」イエスさまのところにやって来て尋ねました。なぜ私たちには治すことができなかったのか、と。
イエスさまは「あなたがたの信仰が薄いからだ」と答えられました。
信仰が薄い。もっと厚い(熱い、篤い)信仰でなければならない、ということでしょう。しかしそうであればこの後に続いて語られた言葉は不思議です。「もし、からし種ほどの信仰があるなら・・・」。
からし種、というのは、種の中でももっとも小さいものです。まことに小さいからし種ほどの信仰さえあれば、山を動かすこともできるほどに何でもできるのだ、と言われたのです。
信仰は薄くてはいけない。しかし小さな信仰さえあればよい。薄い信仰ではなくて、小さな信仰でなければならない。なんとも不思議な言葉です。
信仰には大きく二種類があるように思います。乱暴にいうと自分中心の信仰と自分中心でない信仰の二種類です。
目の前に山のように立ちはだかる困難に出会った時に、神さまの力をかりてその問題を解決しようとすることは、神さまの力を借りるのですから、一見信仰のように見えますが、結局、その山を取りのけたいという願いを私が持っていて、その願いの通りに事を運ぼうとしているのですから、どこまでも自分が中心の信仰です。
それに対して、山のような困難を前に、人間ですからそれを取りのけてほしいとはもちろん祈るのですが、それだけでなく、神さまの御心の通りにしてください、という祈りも生まれてきます。その困難のなかに、神さまの善や愛を発見しようとします。どのような結果であっても、神さまに委ねてしまおう、とします。
この違いは、どこから生まれるのか。困難の背景に神さまがおられること。理由は分からないところもあるのですが、神さまの愛があるのだ、と信じることが、その神さまに委ねるという信仰を生んでいるのだと思います。それに対して前者においては、神さまはただの「力」です。もう少し強く言うならば、道具、です。
キリスト教会は、神さまを信じるにおいて、その神さまが人格をお持ちのお方であることを強調します。善や愛をお持ちであることを信じています。ただの力、霊力、と信じているだけではありません。
治すことのできなかった弟子たちは、ここで、苦しむ父と息子とともイエスさまの前にひれ伏し、あわれんでやってください、と祈ったでしょうか。イエスさまが群衆の所に来られた時に、そのようにしたのはこの父一人でした。弟子たちは、自分たちができなったことにばかり心がとらわれてしまっていたのではないでしょうか。自分たちのプライドが傷つけられたことばかりに思いが縛られていたのではないでしょうか。苦しむ父と息子への共感はどこにあるのでしょう。まことに神さまに委ね、神さまを中心とする信仰が薄いのです。
しかし父は、イエスさまに近寄りました。なりふりかまわずひざまずいて祈りました。自分のプライドなどどこにもありません。ありのままの心をイエスさまの前に注ぎました。ここに小さな信仰、からし種ほどの信仰があるのではないか。そんな風に思いました。