一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私のいのちの日の限り主の家に住むことを。

静まりの時 詩篇27・1~6
日付:2023年07月25日(火)

 ダビデによる。
1 主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。
 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
2 私の肉を食らおうと
 悪を行う者が私に襲いかかったとき
 崩れ落ちたのは
 私に逆らう者 私の敵であった。
3 たとえ 私に対して陣営が張られても
 私の心は恐れない。
 たとえ 私に対して戦いが起こっても
 それにも私は動じない。
4 一つのことを私は主に願った。
 それを私は求めている。
 私のいのちの日の限り主の家に住むことを。
 主の麗しさに目を注ぎ
 その宮で思いを巡らすために。
5 それは 主が
 苦しみの日に私を隠れ場に隠し
 その幕屋のひそかな所に私をかくまい
 岩の上に私を上げてくださるからだ。
6 今 私の頭は
 私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
 私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ
 主に歌い ほめ歌を歌おう。
(詩篇271~6)

 イスラエル二代目の王ダビデ。その生涯の前半は戦いの毎日でした。イスラエルを脅かす近隣の勢力との戦いでした。ダビデはその戦いの多くを勝利していったようです。主はその戦いに勝利をもたらしてくださったのです。
 戦いが起こるのには、二つの形があるように思います。一つは自国が他国に攻めていくということ。侵略という言葉が当てはまるでしょうか。二つ目は他国が自国に攻め入ってくることによっておこる戦わざるを得なくなる戦い。防衛です。ここでダビデは「たとえ私に対して陣営が張られても」と言いますから、防衛戦争を指しているように思います。
 ただ単純な防衛戦争だったのかというと、そうとも言えません。もともとはカナンの地にイスラエルのほうが入植していったのですから。先に侵略戦争を起こしたのはイスラエルというべきかもしれません。
 いずれにせよ、戦争においては両者のどちらが正義でどちらが悪か、ということは簡単には言えないことかもしれません。

 さてここでダビデの歌をもってイスラエルが、そして教会がどのような戦いを想定して、その慰めを得ていたのか、が大切なポイントのように思います。

 3節は共同訳では以下のように訳されています。

「たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても 私の心は恐れない。たとえ、戦いが私に向かって起こっても 私の信頼は揺るがない。」(共同訳2018 詩編27・3)

 新改訳で「動じない」と訳されている言葉は、共同訳では「信頼は揺るがない」と訳しました。信じていること、信頼していること。どのような戦いの中にあっても、神さまへの信頼が揺るぐことはない、と歌っているのです。
 心が揺さぶられないように、動じないように自分の力でそれをしっかりと握っているということは、流れに流されないようにと自分自身の身体を自分が抱きしめているようなことです。滑稽ですね。
 心が揺さぶられないように、動じないようにするためには、決して揺らぐことのない存在に自分自身を結びつけること、そしてそれに委ねきることによって実現することでしょう。逆巻く波の中でも、いかりを降ろし、大地にしっかりと舟を結わえ付けるのです。

 ですからダビデが戦いの中に願ったことは、

 一つのことを私は主に願った。
 それを私は求めている。
 私のいのちの日の限り主の家に住むことを。
 主の麗しさに目を注ぎ
 その宮で思いを巡らすために。(4)

 「主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために」「いのちの日の限り主の家に住むこと」。敵に勝利するための方策として主を求めたのではなく、ただ主とともに生きることの喜びを求めたのです。そうして主への信頼を確かなものとすること。それが闘いの中にあったダビデの願いでした。つまりダビデの闘いは、表層的にはいわゆる戦争でしたが、ダビデにおいては「信仰の闘いであった」と言えるでしょう。それならば、私たちも日々経験することです。その信仰の闘いに如何に戦っていくのか。それが詩篇の語るところではないかと思います。

 主を求める、ということは、私という存在が主のものであることを確認することです。親を求める子どもがそれによって自分がその親の子であることを確認するように。そして私という存在が誰彼のものではなく主のもの、神のものである、ということが確認されるということは、私という存在が聖なるものである、ということを確認することです。かけがえのない存在であるということを確認することです。何か偉大なことをなすことによって自分というものの価値観が確かにされる、というのではなく、神のものである、ということを確認することによって自分の価値観は確かにされるのです。ですからダビデはひたすら主の家に住むことを願い求めました。
 そのようなダビデを主は祝してくださり数々の勝利をもたらしてくださったのだと思います。

 だれしも戦いは好みません。できる限り平和に生きていきたいと願います。しかし人生にはさまざまな戦いが起こってきます。主にある者は、そのような中にあって願うべき一つのことは、主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすこと」そのために「主の宮に住むこと」です。そうすれば主は必ず

 私の肉を食らおうと
 悪を行う者が私に襲いかかったとき
 崩れ落ちたのは
 私に逆らう者 私の敵であった。(2)

 との、主の御業にあずかることが出来るのではないでしょうか。主が戦ってくださるのです。私たちはその戦いの邪魔をしないように、主にのみ目を向けていれば良いのだと思います。