どんなときにも神に信頼せよ

静まりの時 詩篇62・7~12
日付:2023年07月26日(水)

7 私の救いと栄光は ただ神にある。
 私の力の岩と避け所は 神のうちにある。
8 民よ どんなときにも神に信頼せよ。
 あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。
 神はわれらの避け所である。   セラ

 「私の救いと栄光」。何が私にとって救いであるのか。
 病に苦しむ者にとっては、いやしは救いでしょう。問題のただ中にあって行き詰まる者には、その解決が救いでしょう。死の恐怖と絶望を思うならば、罪の赦しと永遠の命への希望は救いであるはずです。聖書はあらゆる救いを想定しているともいますが、創世記3章の罪と死の始まりを見ると、罪の赦しと永遠の命の約束、そしてそれは再びエデンの園での生ということだと思いますが、これが聖書の語る救いであるように思います。
 しかしこれが救いである、と言われてピンと来る人もいれば、そうでない人もいるでしょう。やはり今の自分にとっては、病の癒しや問題の解決が救いであると言う人も多いと思います。
 では、教会はそれぞれの救いのイメージに合わせて救いを語るのか。私はそうではないと思います。教会は、まず救いとは何か、ということから語るのだと思います。私たち罪びとは、まず救いとは何かを神さまから教えていただかなければならないのです。私がイメージしている救いがあったとしても、果たしてそれは本当の救いなのだろうかと、問われなければならないのです。そうして、あなたはこれが救いだと思っているかもしれないけれども、本当の救いは罪の赦しと死の解決なのだよ、と教えていただかなければならないのです。そうして救いへの道に出発することが出来るのです。私の救いはただ神にあるのです。

 「私の救いと栄光」。何が私の栄光、輝きであるのか。
 栄光という言葉は、ヘブル語で「カーバド」、重たい、とか、尊ぶ、という意味です。何が私を尊ぶことになるのか。何が私の重たさ、存在感を明らかにするのか。これも罪びとである人間にはわかっていないのだと思います。
 そもそも価値を判断するためのものさしは、それ以外のものでなければなりません。客観的なものがあって初めて、判断する、測る、ということが可能となります。何とか賞というのがだれかに授けられた、ということが報道されると、その賞のもつ力が受賞された人物を価値づけることがあるでしょう。もし自分で、私にはなになに賞をいただく価値があるのだ、と言い張ってもあまり意味がありません。まったくの他者が、価値を認めてくれてこそ、価値の確かさがあるのです。
 私は尊い存在である、栄光に輝いているのだ、といくら私が言い張っても、あまり意味がないのです。絶対他者である神さまが、あなたは尊い存在である、と語ってくださいます。天と地を創造された神さまが、私の価値基準となっていてくださるのです。そうして私たちは栄光をいただく者となります。私の栄光はただ神にあるのです。

 私の救い、私の栄光が、神にあることを知った者は、「私の力の岩と避け所は 神のうちにある」ことを知ります。それはまた神さま以外には避け所がないことを知らされることでもあります。

 神さまが私の避け所であることを知った者は、「どんなときにも神に信頼」します。そして「心を 神の御前に注ぎ出」します。
 信頼が、心を注ぎだすことを得させます。そして心を注ぎだすことが、信頼していることを証しします。どんなときにも信頼する、ということは、どんなときにも、心を注ぎだすことです。

 注ぎ出すことを、フランシスコ会訳では「み前に心を開いて願え」と訳されていました。心を開くこと、そして願うことです。心を開かないで願うのは、商取引のようなことですが、心を開くのですから、そこでの願いは、子が父に向かって「アバ」と呼びかけるようなことでしょう。父に抱きかかえられて、そこに憩いを得、安心を得て、願うのです。祈るのです。

 神さまを信じることは、窮屈で不自由なことではないか、という人がいます。確かに人類の歴史は、人間の自由を求めてきた歩みである、と言えるでしょう。過酷な自然の不自由さの中から自由になるために自然科学は発達してきました。病気から自由になるために医療が前進します。封建的な世界から自由になるために、民主的な政治、法律が生まれてきました。神さまに縛られてきた歴史から自由になるために、さまざまなことが神話とされフィクションとなりました。そうして人間は自由を求めて来たのですが、果たして本当に自由になったのか。西欧では市民革命によって、それまでの封建的な社会から多くの人が自由を手にしました。しかしいざ自由を手にした人たちは、その自由を守るためもあって、以前にもまして自由を制限する人になった、ということは歴史の事実でしょう。日本も明治維新などを思うと似たり寄ったりでしょう。まさに「自由への逃走」は「自由からの逃走」でもあったのです。

 放蕩息子のたとえが語っているように、人間は、まことの父のところに戻らない限り本当の自由は得られません。まことの父である神さまの所で、心を注ぎ出すことのできる平安をいただいて、まことの自由を得るのです。

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