静まりの時 ダニエル3・16~18
日付:2023年07月24日(月)
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。
「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
(ダニエル3・16~18)
バビロンの王ネブカドネツァルは自分の権力欲を満足させるために金の像をつくりました。高さは60キュビト、幅が6キュビト。1キュビトが約44センチと欄外にありますから、高さは2640センチ、幅は264センチ。つまり高さは26メートルを超え、幅は3メートル近くあります。10階建ての建物ぐらいでしょうか。当時としては巨大な像です。ドラの平原にそびえたつ金の像。しかしネブカドネツァルはそれで満足することが出来ません。奉献式を行います。国中の高官を集めます。その式典では数々の楽器が用いられます。気分の高揚がはかられます。これらみなネブカドネツァル王の権力が誇示されるためでした。権力者はいつの時代も同じです。自分がいかに重要な人間であるのかを誇示したいのです。そのために人びとを支配したくてたまらないのです。
カルトの特徴を日本基督教団・仙台宮城野教会牧師の齋藤篤先生は、「人間関係におけるゆがんだ支配構造によって、本来人間に与えられるべき尊厳が奪われ、破壊される状態」(いのちのことば社、2023年1月号)である、と書いておられます。「支配欲」。それは権力者だけではなく、私たち罪びとはみなその心に巣くわせています。創世記3章から始まった「支配欲」は、知識への支配欲に始まりました。それは、神に対する支配欲となり、本来愛すべき夫婦間、親子、兄弟の中に現れていきました。支配しようとする心、コントロールしようとする心。それは結局自分への価値観が失われていることの現れです。その失われた価値観を穴埋めすることが人生のテーマになってしまったあわれまれるべき状態が生み出すもの。それが支配欲なのです。自分への価値観を完全に満たしてくださるお方は神さまだけですから、神さま以外の者にその満足を求めて行っても満たされることはありません。結局、あくなき支配欲への道を歩むことになります。
しかしここに3人の若者たちがいました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。彼らはバビロンの名前を付けられ本来の名前は奪われています。しかしその信仰は失われてはいませんでした。彼らは王に答えます。
「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
これは宗教的信念による強烈な主張でも、権力には屈しないという頑なな狂信的態度でも、何が何でも神さまは守ってくださるに違いないという迷信、妄信でもありません。神さまは救い出すことができるおかたである、という安心感とともに、たとえそうでなかったとしても、そこに神さまの善のお心を見いだそうとしている広やかな心、柔和な心が、語られているのだと思います。ただひたすら神さまにのみお仕えしようとする者の喜びが語られているのだと思います。強烈な主張や狂信的態度、迷信、妄信は人を寄せ付けません。しかし広やかな心、柔和な心には人を招く平安があります。彼らはまさに奇跡です。
案の定彼らは、燃えさかる火の炉に投げ込まれました。縛られたままで、火の燃える炉の中に落ちていく三人の若者。しかし王は驚きとともに急に立ち上がります。
「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」
彼らは王に答えた。「王様、そのとおりでございます。」
すると王は言った。
「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
(24~25)
ある説教集に次のようなことばがありました。
「われわれは三人に伴っていた謎の第四の人物が『神々の子のように」見えたということを信じます。そして、われわれは、それが単に『神々の子のよう』であるだけでなくて、火が燃えるこの世の炉のなかへくだってこられた神の独り子であられたのだと、あえて信じます。み子こそ、まさに一面に悪事にいろどられたわれわれの世界をかえりみ、そして、われわれを憐れんでくださったかたなのですから、その時以来、ドラの平野には太陽の光がさし込むだけでなく、この悪事に支配された涙の谷にはあがない主の十字架が立てられるにいたったのです。われわれをさばき、また、われわれに呼びかける十字架が。
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ドラの平野でネブカデネザルの目をおどろかしたできごとすらも、復活日の明け方にアリマタヤのヨセフの園で見張りの兵たちを仰天させたできごとに比べれば、大したことではありません。ネブカデネザルの火どころか、死すらも『彼の身にはなんの力も』ありませんでした。
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その時以来、ふたりまたは三人がキリストの名によって集まるところでは、キリストは謎の第四番目の人物としてかれらのただなかにお立ちになります。そして、ふたりまたは三人が火の燃える炉のなかで過ごさなければならないときにも、〈詩を克服して〉あらゆる墓と火葬場の主とお成りになられたかたが、火の燃えるあらゆる炉の主ともお成りになってくださるのです。
『このように救を施すことのできる神は、ほかない』のです。」
(リュティ、『預言者ダニエル』、新教出版社、1978年、57頁ff)