私の切なる願いに耳を閉ざさないでください

静まりの時 詩篇55・1~8
日付:2023年07月22日(土)

神よ 私の祈りを耳に入れ
私の切なる願いに耳を閉ざさないでください。
私をみこころに留め私に答えてください。
私は悲嘆に暮れ泣き叫んでいます。
(詩篇55・1,2)

神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。
嘆き求めるわたしから隠れないでください。
わたしに耳を傾け、答えてください。
わたしは悩みの中にあってうろたえています。
わたしは不安です。
(新共同訳 詩編55・2,3)

神よ、私の祈りに耳を傾けてください。
私の願いから身を隠さないでください。
私に心を向け、答えてください。
私は嘆きの中にあってうろたえ、不安です
(共同訳2018 詩編55・2,3)

 「私の祈り」「私の切なる願い」。私というものが、祈りや願いをもっているということ。その祈りや願いが、答えられる、かなえられる、ということを切望しているということ。そしてそれを神さまに「希(こいねが)う」ということ。そこに現れているのは、私という人間は、願いを持っている、ということであり、その願いを自分では実現することが出来ないということを知っているということであり、その願いに答えることが出来るのは神さまだけである、ということを信じている、ということでしょう。
 神さまは答えることが出来る、ということを信じているということ。それは神さまが全能者、何でもできるということを信じているということでしょう。しかしなぜ神さまは私の願いに答えなければならないのでしょう。全能であれば、それは全き自由を持っているということですから、私の祈りなどに答えなくてもよい自由をお持ちのはずです。
 答えなくてもよい自由をお持ちであるにもかかわらず、答えてくださる、と信じるのは、神さまが愛なるお方であり、その愛を私に傾けていてくださる、ということを信じているからでしょう。
 では神さまが私を愛していてくださる、ということをどうして信じることが出来るのでしょうか。神が愛であるということは、人間にとって信じられることなのでしょうか。神さまが創造者であり全能者であるならば、どうして災害があり理不尽な死があるのでしょう。逆に不正や悪がはびこるのでしょう。世界を見れば神さまが愛であるという証拠を見つけることは簡単なことではないでしょう。
 しかし私たちは神さまが愛である、そしてその愛は抽象的なものではなく、私に注がれている具体的な愛である、ということを信じています。漠然と信じている、というのではありません。十字架と復活に現された神さまの愛を信じているのです。神さまは全能者であり全き自由をお持ちのお方ですが、その自由を最大限用いて十字架への道を歩んでくださったのです。時の宗教家、権力者、先導された民衆の為すがままに、自らを委ねていかれたのです。ここに神さまの全き自由のお姿が示されています。この神さまですから、私たちは、私たちの命や願いを聞いてくださることを信じているのです。

 「耳を傾けてください」「身を隠さないでください」「心を向け、答えてください」。
 神さまは私たちを愛してくださいますから、耳を背けたり、身を隠したりされるはずがありません。私たちが願うまでもなく、心を向け、答えてくださるお方です。しかし人間は、このように願わざるを得ません。
 私の必要を、私以上にご存じでそれに答えることが出来、そして答えたいと願っていてくださる神さまであるならば、私たちに祈る必要があるのだろうか。
 あるのです。それは神さまは人間の手で作った偶像ではなく、人格をお持ちのお方だからです。神さまが人間を創造された目的は、御自身との交わりです。人間は、神さまとの交わりをいただいてはじめて人間となります。健やかな人間として生きることが出来るようになります。祈りは神さまとの交わりなのです。人間にとっても、そして神さまにとっても、あたたかな交わりの時なのです。

 人間は自由を求めて生きています。何かの束縛から自由になることこそ、自分らしく平安と喜びをもって生きることが出来ると信じています。しかしそうして得た自由は、自分の判断と決断、選択によって生きることであり、それに伴う責任が重くのしかかることでした。自分の思い通りになるのですから、ある程度は喜ばしいことだったと思います。しかし自分の思い通りにならないこともあります。自分の感情もそうですが、他人の心はどこまでも私の自由になることではありません。もし私の自由になるとすれば、もはや他者ではないですし、そこに愛の交わりが生まれることはありません。奴隷か機械です。また死は自由にならないものです。病気も、災害もそうでしょう。自由にならないものをまえにして、自由にしようとする、そうしてその責任を自分が負うことになる、そのことに人間は耐えられないのです。なぜ耐えられないのか。それは人間だからです。人間であろうとする心がちゃんとあるからです。
 ですから人間であるならばどうしても全き信頼を置くことのできる存在を求めようとします。

私は言いました。
「ああ 私に鳩のように翼があったなら。
 飛び去って 休むことができたなら。
 ああ どこか遠くへ逃れ去り
 荒野の中に宿りたい。セラ
  嵐と疾風を避けて私の逃れ場に急ぎたい。」
(6~8)

 自由は神さまから離れたところにあるのではなく、神さまの御手の中に憩うときに与えられます。祈りは、神さまの御手の中にあることを再発見し、そこに憩うことです。

 明日は主の日。今日は備えの日。良い備えの一日を送り明日の礼拝に備えましょう。

 母が米寿ということで、小さなレストランに食事に行ったのですが、ふと横を見ると娘一家が食事をしていました。不思議ですね。あやうく勘定を回されそうになりました。