だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず

静まりの時 エズラ9・10~15
日付:2023年07月21日(金)

 私たちの悪い行いと大きな罪過のゆえに、様々なことが私たちの上に起こりましたが、私たちの神、あなたは、私たちの咎に値するよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように私たちに備えてくださいました。そのようなことの後で、私たちは再びあなたの命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と、姻戚関係に入ってよいのでしょうか。あなたは怒って、ついには私たちを絶ち滅ぼし、残りの者も、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか。
 イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。(エズラ9・13~15)

 12節に「だから今、あなたがたの娘を彼らの息子に嫁がせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子の妻にしてはならない。永久に彼らの平安も幸せも求めてはならない。」とあります。その理由は「それは、あなたがたが強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫の所有とするためである」といいます。イスラエルが祝福されるために、異教の民と姻戚関係を持ってはならないということです。
 これは新共同訳では次のように訳されています。

「それゆえ、あなたたちの娘を彼らの息子に嫁がせたり、彼らの娘をあなたたちの息子の嫁にしたりしてはならない。あなたたちが強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とすることを望むならば、彼らと同盟を結ぼうとしてはならない。また、それによる繁栄を決して求めてはならない』と。」(新共同訳、エズラ9・12)

 イスラエルが、異教の民と同盟を結び、その繁栄を求めようとしたのは、異教の民のその繁栄に自分たちも与りたいという願いから、ということでしょう。しかし、本当に、強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とすることを望むならば、かえって異教の民の繁栄を求めてはならない、それを利用してはならない、というのです。神さまのみに御頼りしていきなさい、ということでしょう。

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイ5・5)

 イエスさまは、この地を受け継ぐのは、すなわち、本当に強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とするのは、柔和な者である、といわれたのです。しかしこの世はそうは語りません。柔和でいれば、この世での祝福にあずかることが出来ない、この世は戦いの世である、この世で祝福にあずかるためには、他人の目を出し抜き戦いに勝利しなければならない、柔和でいてはならない、とこの世は語るのではないでしょうか。
 繁栄。魅力的な言葉です。教会においても例外ではありません。集う人数が増え教勢が伸びること、経済力が増すこと、華やかな活動が展開されること、地域社会に影響力を持つこと、などなど、そこに神さまの祝福があると言われることも多いでしょう。そのために、この世の力をうまく利用することも大切かもしれません。時代に波に乗り、この世の魅力的なものと結びあい、同盟を組み、と。
 しかし、本当に強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とすることを望むならば、むしろそういったこの世のものとは縁を切っていかなければならない、ということかもしれません。神さまのみを神さまとして、日々を柔和に、柔らかく生きていくところに、この地を受け継ぐ者の確かな道があるのです。

「私たちの悪い行いと大きな罪過のゆえに、様々なことが私たちの上に起こりましたが、私たちの神、あなたは、私たちの咎に値するよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように私たちに備えてくださいました。」(13)

 私たちが犯した罪に対して、本当に受けなければならない罰。神さまはその罰よりも「軽い罰」を与えられた、とエズラは祈ります。新共同訳では「わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をもそう重く見ず」、共同訳2018では「私たちの神よ、あなたは私たちの過ちを重く見ず」。
 私たちの罪に対して、神さまはその罪を軽く見てくださった、ということでしょう。だからこそこうして生き延びさせていただいている、と。本来ならば、もう生きていることなどできない、それほどまでに私たちの罪は深い、と言うことでしょう。「私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず」。

 このように生かされている。ここにすでに神さまの憐れみがある、ということです。礼拝ごとに懺悔をする、悔い改めをするのは、そういう理由からです。礼拝の場に臨ませていただいている、ということ自体が、もう神さまの憐れみなのです。

 「イスラエルの神、主よ、あなたは正しい方です」(15)。共同訳2018もこのように訳しています。これに対して新共同訳では次のように訳しています。

「イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です」(15、新共同訳)。

 正しい、という言葉は、白黒をはっきりさせて、罪ある者にはそれにかなう罰を与える、ということでしょう。しかし聖書の語る正しさ、あるいは聖書の神さまの正しさとは、恵み深い、ということと同じなのです。ヨセフは自分のあずかり知らないところでいいなずけのマリアが懐妊した時に、そっとさらせようとしました。そのことを聖書は、ヨセフは正しい人であったので、と語ります。律法主義における正しさであれば、マリアを石打の刑にすることではなかったかと思います。しかしヨセフはそっとさらせようとした、もしかすると、世間から、ヨセフはマリアに手を付けておきながら、何が気に入らなかったのか去らせてしまった、なんという勝手な男だろうか、と後ろ指をさされることも引き受けようとした、ということかもしれません。ここにも聖書の語る正しさが明らかにされていると思います。
 正しい、ということは、優しい、という言葉と近いのかもしれません。柔和であるということとも重なっているように思えます。この地を受け継ぐ人の在り方のようにも思えます。

「ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」(15)。

 こうして生かされているということ自体に神さまの憐れみ、恵みがあるのです。それは自らが罪びとであることを知っている人だけが知り得る恵みです。罪過を負っているにも関わらず、こうして神さまの御前にいるのです。赦されているのです。愛されているのです。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)

 ヨセフとマリアのことを思うと、また正しさとは何かと思うと、いつもこの「姦淫の女」と呼ばれる個所のイエスさまのお言葉を思い起こします。「あなたがたの中で罪のない者が」と言われた途端、それを聞いた人たちの中には、自分には罪はない、と主張する人が誰もいなかったというのです。みんな自分には罪があることを知っていました。この姦淫の場でとらえられた女性に石を投げることが出来ると考える者はいなかったのです。では先ほどまで狂気にかられたように訴えていた彼らはなんだったのか。彼らを突き動かしていたものは何だったのでしょうか。正義感でしょうか。扇動されただけでしょうか。イエスさまを告発することばかりに心がいっぱいだったからでしょうか。いずれにせよ、自分の姿が見えていなかったということではないか、と思います。自分の何が見えていなかったのか。それは罪だと思います。自分の罪が見えていなかった。自分が罪びとであることが見えていなかった、ということでしょう。そしてその罪びとが、こうして生かされているところにすでに神さまの恵みがある、ということが見えていなかったのでしょう。
 私は、自分が罪びとである、ということが果たして見えているだろうか、と思いました。