私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく

静まりの時 エズラ9・6~9
日付:2023年07月20日(木)

事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。
(エズラ9・9)

 捕囚から解放されたイスラエルはエズラの指導の下、神殿を再建しました。しかし神殿は再建されたものの、イスラエルの状態は「捕囚から帰って来た人々の不信の罪」(4)が依然解決されないままになっていました。
 この「不信の罪」とは、「異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つこと」(1)がなかったこと、その結果「聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってし」まったことです。
 エズラはこの状況を知らされると、「衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んで」(3)しまいました。この「不信の罪」のことで、「イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者」(4)たちもエズラの下に集まってきました。エズラは「夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座って」(4)いました。ささげ物の時刻になると、エズラは立ち上がって祈り始めました。「私の神よ。私は恥じています・・・」。この祈りのあと恐ろしいまでの改革が行われます(10章)。

 エズラは「私たちの咎は増し・・・」と祈りました。不信の罪を犯したのはエズラではありません。しかしエズラは「私たちの咎は増し」と祈るのです。誰かが罪を犯している、それはエズラにとっては私たちの咎だったのです。他人事、とは思わなかったということでしょう。イスラエルは信仰の共同体でした。それは神さまの恵みの中にある共同体であるとともに、罪を個人的な問題としない共同体でもありました。

「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(第一コリント12・26)

 エズラは祈りにおいて、神さまが如何に恵み深いお方であるのかを告白します。奴隷であったものを、神さまは見捨てることなく、恵みを施してくださった、こうして生かしてくださった、神さまの神殿を立て直させてくださった、と神さまの祝福を数えます。
 今イスラエルは「不信の罪」の中にあります。それを目の当たりにしたエズラは茫然とするばかりでした。しかし、神さまは恵み深いお方である、今までもそうであった。そうであるならば、今もその圧倒的な恵みの御手を伸ばしていてくださるはずだ、と祈るのです。エズラは、恵み深い神さまに寄り縋りながら、茫然としたところから立ち上がりました。
 絶望の時に、神さまの恵みを数えたいと思います。絶望のときにこそ、恵み深い神さまを見上げたいと思います。

 このあとの10章に記されている「異民族の妻子との絶縁」(新共同訳)「外国人との結婚解消」(共同訳)は、今日的な感覚からはずいぶん違和感のあることです。これをそのまま現代の社会に当てはめることは難しいと思いますし、ふさわしくないと思います。聖書の言葉だからといってそのまま当てはめるとすれば、確かに聖書の言葉通りかもしれませんが、それをもって「聖書的」かといえばそうではないでしょう。逆にこれが「民族浄化」ということであれば、看過できない暴力であり大きな人権問題だと思います。ですから私たちは丁寧に聖書を読まなければなりません。新約聖書の心をもって読まなければならないと思います。
 ここに記されている雑婚の問題を、解決されない私たちの中にある罪の問題と当てはめてもよいと思います。神さまを礼拝するための神殿は再建されたけれども、罪の問題が解決されていないとすれば、それは大きな問題でしょう。それが大きな問題であると考えることのできる共同体である、ということは、神殿の再建以上に大切なことなのだと思います。
 もう30年も前のことですが、母校の神学校が、ちょうど学んだ時期に建て替えをしていました。それこそ蔦の絡まる古い礼拝堂が解体されるときには、多くの先生方が集ってこられ、ここで結婚式をしていただいた、ここで子ども祝福式をしていただいた、と語り合っておられました。新しい素敵なチャペル、大きな講堂、その他施設が完成すると、学長先生が、いよいよ中身です、といっておられました。教会も会堂も大切ですが、中身こそ大切です。