静まりの時 第二サムエル7・25~29
日付:2023年07月17日(月)
イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。
(第二サムエル7・27)
「王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。」(1)
約束の地に入植したイスラエルの国は戦い続きでした。しかし、今ダビデ王の治めるイスラエルの国は、大いなる平和の中にありました。神さまがそのようにしてくださったからです。ダビデはこの大いなる平和を神さまに感謝したいと思いました。そこで預言者ナタンに相談しました。ナタンはそれは良いことです、心にあることをみな行えばよろしい、と、答えました。
ところがその夜、預言者ナタンに神さまのおことばがありました。神さまは、ダビデが成そうとしていることに対して良いとか悪いとかははっきりとは言われません。ただ繰り返し語られたことは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上ったその日以来今日まで、わたしはいつもともいた、ともに歩んできた、そして敵を打ち滅ぼし、今安息を与えている、と語られました。そしてこれからも変わることなく、あなたとともにいて、あなたの王権はとこしえまでも堅く立つ、といわれたのです。
平安が与えられているので、その平安を与えてくださっている神さまに感謝の献げ物をしたい、と言うダビデに対して、神さまは、わたしはいつもともにいて、あなたを守り導き祝福してきた、これからもそうする、といわれたのです。なにかかみ合っていないような神さまの言葉です。
しかしこの預言者ナタンを通して語られた神さまのお言葉を聞いたダビデは、神さまの前に出て、座して祈りました。「神、主よ、私は何ものなのでしょうか・・・」(18)。
つまりこういうことでしょう。神さまは大いに祝福してくださった、だから感謝を表そう、たとえば神殿を建てるというのはどうだろうか、というダビデに対して、神さまは、わたしは一方的な愛であなたを愛してきたぞ、といわれました。それを聞いたダビデは、自らの過ちに気づいた、ということでしょう。
ダビデの気づいた過ちとはなにか。恵んでくださった神さまに、自分のほうもお返しをしたいと思ったのです。お返しをした途端に何が起こるのか。それは神さまとダビデが対等の立場に立つ、ということです。ダビデが気づいた自らの過ちとは、自分を神と対等の立場に立とうしている、自分が神になろうとしている、ということだったのだと思います。
むかし学生の頃、毎週のように宣教師宅に押しかけ夕食をごちそうになりました。招いてくださったからです。そのとき、宣教師の奥さまのほうが、必ず手ぶらで来なさい、といわれました。もし何かを持ってきたら、例えばデザートにアイスクリームとか、を持参したら、家には入れませんよ、と。ちょっと冗談交じりだったのかもしれませんが、そこで私たち学生が学んだことは、もし、ごちそうになる者が何かを持参したら、これはごちそうになることではなく、対等の立場で、単なる食事をすることになってしまう、ということでしょう。私たちは、夕食をごちそうになるということを通して、宣教師の愛をいただきに行っていたのです。大げさに言うと、愛の場が、ただの食堂になってしまうということだったのだと思います。
ダビデは、神さまからの大いなる恵みをいただいたので、その感謝を表したいと思いました。それは悪いことではないと思います。しかし神殿を建てるという「物」をお返しするというのは、神さまの前に対等の立場に立つことである、ということにダビデ自身が気づいたのだと思います。
そこであらためてダビデは祈りました。
イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。(27)
神さまがお語り下さったので、私はこの祈りをあなたに祈る勇気、心をいただいたのです、と。祈るということも、自分から出たことではなく、神さまご自身がそうしてくださったからこそ、祈る者にしていただいたのです、すべては、神さま、あなたの御業です、と祈ったのです。それは、いわば神さまを神さまとした、ということでしょう。
イエスさまは、多くの人たちを祝福されました。癒しを行われました。イエスさまは、一方的な恵みを注いでくださったのです。イエスさまは十字架と復活の御業をもって人々に救いの道を開いてくださいました。信じる者をことごとく救ってくださいました。
私たちはイエスさまに何をお返しすることが出来るでしょうか。イエスさまが十字架に架かってくださったから、私も同じように命を捧げることでしょうか。もしかしたらそれも大切かもしれませんが、もしそれが自分もイエスさまと同じ位置に立とうとしていることであるならば、それはまだ神さまの恵みが分かっていない。神さまの恵みが一方的なものであったといことが分かっていないことではないか、と思います。
何もお返しすることができない、それほどに神さまの恵みは大きいものなのです。私たちにできることは、ただ感謝を捧げることだけだと思います。まるで憐れみを受けた物乞いのようにただありがとうございます、というだけなのだと思います。そしてひたすら感謝を捧げつつ生きることが、神さまが一番喜んでくださることだと思います。
ただそうは言っても、私たちは感謝を表すのに、物、をプレゼントしたりするものです。そういうことも一切よくないということなのかというとそうではないと思います。このダビデの祈りののち、ダビデは建てることになりませんでしたが、息子ソロモンが建てることになりました。ソロモンは神殿が建ったときに、神さまはこのような神殿に閉じ込められるようなお方ではありません、と祈りました。神さまへの感謝に満ちた捧げものは、自分を神としない、自分のなしたことを誇りとしない、ということによって成り立つのだと思います。高慢の人の、ありがとう、という言葉やプレゼントは、他者を見下す言葉、傷つける品物、となってしまうのです。神さまを神さまとする謙遜が、感謝を形作るのだと思います。