静まりの時 使徒13・16~43
日付:2023年07月15日(土)
しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。
・・・
しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。
(使徒13・30,37~39)
「ピシディアのアンティオキア」にやってきたパウロたちは、安息日に会堂に入って席に着きました。パウロ一行はみなユダヤ人ですから、当然と言えば当然です。しかしイエスさまを信じて、過去の習慣や民族の信仰生活から自由にされているのですから、安息日だからと言って会堂に行く必要はないはずです。どうしてパウロたちは会堂に入って席に着いたのでしょう。
パウロの手紙の多くは異邦人に対して書いているところがあります。それに対して使徒の働きの中では、パウロはユダヤ人に対して語っていると言われます。異邦人宣教に召されるパウロではありますが、同胞であるユダヤ人の救いをないがしろにしたわけではありません。同胞だからこそ、その救いについてあつく願っていたのだと思います。そういう意味では、宣教を目的として、わざわざ行かなくてもよい安息日に会堂に入って席に着いた、とも考えられるのかもしれません。そうであれば、パウロの説教を聞いた会衆は、次週も来てほしいと願っていますので、目的が果たされているように思えてきます。
ただ、そのように宣教を目的として会堂に入るということ自体は、あまり褒められたことではないように思います。そこはユダヤ人にとっては大切な礼拝の場所なのですから。また、パウロが会堂に集まっていた人たちにお話をすることになったのは、パウロたちが予定していたことではなかったのだと思います。
パウロたちはイエスさまを信じて救われました。しかし同時にユダヤ人である、ということがなくなったわけではありません。イエスさまを信じるということは信仰の問題です。それに対してユダヤ人であるということは、信仰とは別のことであった、ということかもしれません。全く別のことというのではありません。しかしイエスさまを信じたからと言って、ユダヤ人であることの意味を失ったわけではなかった、ということでしょう。
これはあらゆる民族に当てはまるのではないかと思います。私は日本人ですが、イエスさまを信じたからと言って日本人を止めたわけではありません。私はすべての人がイエスさまを信じて救われてほしいと願っています。しかしそれによって日本の文化がことごとく消失するならば、ちょっと違うのではないか、と思います。
パウロたちはイエスさまを信じて新しくされました。しかしユダヤ人であるということを止めたことではありませんでした。その単純な現実が、この日会堂に入って席に着いたということだったのではないかと思います。
さて、神さまのなさることには何一つ無駄がありません。そうして席に着いたパウロたちに、会堂司から奨励を語るように、と勧められることになります。そこでパウロが立ち上がり語り始めました。
長い説教です。ペテロの説教(2章)、ステパノの説教(7章)を一つにしたような説教です。旧約聖書や歴史が語られるところは同じですが、ペテロやステパノの説教が、十字架を中心にして悔い改めを迫るものであったのに対して、パウロのこの説教は、よみがえり、が繰り返されています。そしてよみがえられたイエスさまを信じることによって、私たちはみな義と認められるのだ、と語ります。
これを聞いた人びとは、ぜひ次の安息日にも同じことを話してほしいと願いました。翌週「ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まってきた」(44)と言います。
義と認められる。義ではなかった私たちのために、身代わりに十字架に架かって罪の償いをしてくださった主イエスさま。この主イエスさまの十字架の犠牲によって、罪びとであった私たちは、贖われました。
これに対してパウロがここで語っているのは、
「神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。」(33)
イエスさまの復活によって、神さまの約束が成就した、その約束とは、義と認められるということである。この復活の主を信じる者はみな義と認められるのである、と語っています。
義と認められるのは、十字架だけではなく、十字架と復活によるのだと言います。
贖いを次のように説明される場合があります。
- 1、人間は罪を犯し、悪魔の奴隷となった。
- 2、奴隷から解放するために、神の命が贖い金として支払われた。それが十字架である。
この贖い金はだれに支払われたのか。悪魔の奴隷であったのですから、悪魔に支払われたのか。もしそうだとすれば、復活はいったいなんであったのか。支払われたけれども、その贖い金にはひもがついていて、悪魔が向こうを向いている間に、神さまが手繰り寄せて、その手に戻してしまわれたのか。もしそうであれば、支払ったものを不正に取り返してしまったことになる。神さまは不正をされたのか。・・・
もちろん神さまは不正なお方ではありません。
そこで次の説明がなされます。
- 1、贖い金はいったい誰に支払われたのか。
- 2、悪魔に支払われたとすれば、それは神と悪魔の二元論の世界が想定されているのではないか。
- 3、聖書は神さまは唯一のお方であり、この世界はその神さまがご支配されていると語っている。
- 4、十字架で支払われた神の命は、悪魔に対してではなく、神に対して支払われたのだ。
- 5、罪びとは、確かに悪魔の奴隷のようであったが、それは神さまに対して「義」の関係が破壊されていたということである。つまり罪は神に対して犯したのだ。罪人は神に対して借金があるのだ。贖い金は神に対して支払われなければならない。
- 6、人間は律法を守ることによって、義を成り立たせようとした。それが律法主義である。しかし支払いきれなかった。あるいは支払うことにならずかえって罪を深めてしまった。
- 7、神に対して、完全に義に生きたお方が、その命を神にお献げすることによって、支払ってくださった。それが十字架です。その捧げられた命を、神は「善し」と受け入れられた、それが復活なのだ。いくら立派な捧げものでも、それを受け入れるということがなければ意味がない。復活はその証拠なのだ。であるから十字架と復活によって、義は完成されたのだ。
- 8、だから復活は、イエスさまが自力で復活されたのではなく、十字架に死なれたイエスさまを、神が復活されたと聖書は語っている。「神はイエスを死者の中からよみがえらせました」(33)。
- 9、このイエスさまを信じる者は、イエスさまが完全に支払われた「功徳(メリタム)」によって、義としていただける、神の子としていただけるのだ。
- 10、イエスさまを信じた者は、イエスさまの義にあずかる者となる。文字通り義としていただける道に新しく生きる者とされた。聖化に歩む者としていただいた。
- 11、救いとは、ただ罪赦された一時点を指しているだけではなく、聖化も想定された人生の状態そのものを指している。
こんな感じでしょうか。神と悪魔の二元論が強調されると、どうしても復活が希薄になってしまいます。パウロが復活を強調するのは、この世界は二元論ではなく、神さまお一人が神である世界なのだ、ということからでしょう。一元論の世界で説明すると、義が聖化に結び付いていることが理解しやすいでしょうか。
復活の主がともにいてくださる。それは、私を義としてくださったお方、また私を義としてくださるお方がともにいてくださる。十字架において命を捨てるほどに愛していてくださるお方がともにいてくださる。私たちは、十字架と復活の主を信じることによって救われているのです。
きょうは土曜日ですね。備えの日です。良い備えの一日を過ごしましょう。そして明日は主の日。喜びの礼拝をおささげしましょう。明日は各会の交わりがあり、午後のプログラムのためにカレーライスを準備してくださる方がおられるとのこと。私もお相伴にあずかれるようで、今から楽しみです。