ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み

静まりの時 第一列王記9・1~9
日付:2023年07月13日(木)

もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。
(第一列王記9・4,5)

 ソロモンが神殿と宮殿を完成した時、神さまは再びソロモンに現れてくださいました。そして語られました。

「あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしてに立たせる」。

 ただ神さまのその祝福にあずかるためには条件がありました。

「あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら」。

 つまりダビデのように神さまを第一にして、神さまの前に歩み、神さまのおことばをそもまま実行し守るならば、神さまの大いなる祝福にあずかることができるのだ、ということです。
 これを律法主義的に理解することも可能だと思います。しかし聖書は律法主義を語るのではありませんので、ここにも福音があるはずです。

 王国の王座がとこしえに立つために、世の王たちがしたことは、権力を増大し支配力を強化することでした。また人脈を形成し姻戚関係を強固にして謀反を起こさせないようにすることでした。しかし歴史を見るといずれも王国の王座がとこしえに立つことにはなりませんでした。軍事力の増強はさらなる軍事力に敗れていきます。財力、権力、さまざまな能力による支配力も永遠のものではありません。
 何が永遠の平和、平安をもたらすのか。

 ここに書かれているのは、ダビデのように神さまのみ前に全き心と正直さをもって歩むこと。神さまが命じられたことをそのまま実行すること。神さまの掟と定めをひたすら守ること。そのような神さまへの信仰が、そして信仰の生き方が、永遠の平和、平安をもたらすのだ、と書かれているのです。

 ダビデのように立派に生きよ、というのではありません。ダビデのように全き心、正直さをもって歩め、というのです。ダビデは秀でた王でしたが罪を犯さなかったわけではありません。人間はみな罪人なのです。ダビデのすばらしさは、罪を犯さないすばらしさではなく、罪を犯したときにそれを認めて悔い改めることのできたすばらしさです。そこにダビデの神さまの前の全き心、正直さが現れているのだと思います。
 また神さまの御言葉を第一にして、神さまの教えの通りに生きること。それはしゃくし定規に字面を行えというのではないでしょう。もっとも大切な戒めは、神さまを愛することと自分を愛するように隣人を愛することです。
 神さまの前に正直に生き、神さまを愛し、自分を大切にするように隣人を大切にしていこうとする。そういう生き方が、王国の王座が永遠に立つこと、すなわち永遠の平和を生み出すのだ、というのです。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4・19)

 私たちが神さまを愛する者、そして自分を愛する者、隣人を愛する者であるのは、神さまがまず私たちを愛してくださったからです。十字架と復活の愛をもって愛してくださったからです。この愛をいただき、この愛の中に生かされているので、愛する者なのです。この神さまの愛を離れては、愛する者ではありえません。
 どんなに深い罪の中にあっても私たちに注がれる神さまの愛には変わりがありません。いまも神さまに愛されているのです。ですからダビデのように生きることができるのです。
 きょうも神さまの前に一日を歩みます。ダビデのように、神さまの前に全き心、正直さをもって歩みましょう。神さまを愛し、自分を大事にしつつ隣人への愛に生きていきましょう。神さまに愛されているのですから、そのように必ず歩むことができるのです。きょうも大安心の一日です。

 昨日の早朝は快晴だったのでもう梅雨も終わりかな、などと思っていましたが、大変な荒天になりました。本部の郵便受けの確認にちょこっと行ったのですが、それだけでずぶぬれになりました。きょうも荒れ模様でしょうか。
 きょうは三か月ぶりの診察日です。主治医にお会いするのが楽しみです。日々の血圧、脈拍、体重を記録した心不全手帳を持参し見ていただきます。夏休みの宿題を持っていく小学生の気分です。今回の診察ではレントゲンや心電図検査もあります。病気で倒れて2年が過ぎようとしています。