静まりの時 第一コリント16・13,14
日付:2023年07月05日(水)
目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。
(第一コリント16・13,14)
目を覚ましていること。再臨の主がいつ来られても大丈夫なように備えていなさい、ということでしょう。10人のおとめのたとえ話のように、油を絶やさない賢いおとめのようであれ、ということでしょう(マタイ25・1~)。
どのように目を覚ましているのか。それは堅く信仰に立つことです。信仰以外のところには立たないこと。主イエスさまへの信頼のみを土台とすること。しっかりとイエスさまに信頼すること。
それは、雄々しく、強くあることです。雄々しく、強くなりなさい、と言っているのではありません。まことに強いお方は主イエスさまだけです。その強いお方に信頼することです。
そうして一切のことを愛をもって行うこと。この行うと訳されている言葉は、原文では、生まれる、生ずる、造られる、起こる、なる、という意味の言葉です。愛をもって行動する、ということですが、自覚的な行いを愛をこめて行う、ということにとどまらず、語る言葉や態度、無自覚な中に行ってしまうことも含めて、そこに愛が生起すること。
そのためには、目を覚ましていること、堅く信仰に立つこと、雄々しく強くあることが必要なのだと思います。目を覚ましていなければ愛に生きることができない。堅く信仰に立っていないと愛に生きることにならない。雄々しく強くされていないと、愛が生まれない、ということでしょう。
逆を考えてみましょう。
目を覚ましていない。すなわち恍惚状態、何かに酔った状態では、愛に生きることができません。礼拝が愛に生きるための備えの時であるとすれば、礼拝はことさら目を覚ますときでなければなりません。
堅く信仰に立っていない。主イエスさまへの信頼に生きていない。すなわち自分の力により頼み、つねに自己中心となっているならば、愛に生きることができません。奉仕において愛が生まれるためには、自己中心ではいけないのです。自己中心ではいけないということは他者中心でなければならない、ということではありません。神さま中心でなければならない、ということです。奉仕は自己満足や自己実現のために行うものではありません。もしそのような心で奉仕を行おうとすれば、それは愛にはなりません。
奉仕が神さま中心となる、ということは、奉仕によって神さまのお心を満足させるということではありません。神さまが無限の愛をもって愛してくださっていることの喜びの中に、感謝を現すことです。感謝が原動力の奉仕は、行動すべき時に行動し、とどめるときにとどめることができます。何が何でも行動しなければならないとなってしまっているとすれば、それは健やかな感謝ではなく、帳面消しかもしれません(笑)。
雄々しく、強くされていない。すなわち、常に自分が傷つくことばかりに目が向いてしまうこと。まずい状態が生まれると、自分は傷つきたくないので、問題の原因をいつも周りの人の責任にすること。それは、神さまが、あなたは高価で貴いと言ってくださるのに、その言葉を信頼していないことでしょう。神さまが本当に自分の味方であることを信頼していないので、常に行動の原理が自分の価値を確かめるためとなるでしょう。承認欲求を、神さまにではなく、他者に求めてしまうので、そこに愛が生起することはありません。周りの人は、自分の価値観を確かめるための道具になってしまいます。周りの人は自分たちが道具とされているのですから、そこで愛を感じることはありません。
この16章13節からは、結びのことば、と表題がつけられています。結局、パウロがコリント教会に伝えたかったこと、勧めたかったことは、愛をもって行うこと、これに尽きるのかもしれません。