静まりの時 ローマ10・14~21
日付:2023年07月01日(土)
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
(ローマ10・17)
信仰は聞くことから始まる、とパウロは言いました。ローマ人への手紙の9~11章はイスラエル人の救いについて書かれているところです。その中で、パウロは、信仰は聞くことから始まるのだよ、と書いているのです。
イスラエルは神の国でした。しかし彼らはイエスさまを信じることができず十字架にかけて殺してしまいました。なぜ信じることができなかったのか。それは、聞いていなかったからだ、というのです。
安息日ごとに聖書が朗読されています。イスラエルの人は幼い時から、聖書に親しんでいます。そういう意味では聞いてきたのです。人類の中では一番よく聖書の言葉を聞いてきた人たちなのです。にもかかわらず、イエスさまを信じることができなかった。イエスさまへの信仰を持つことができなかった。それは、聞いていなかったからだというのです。聞いてはいたけれども、本当に聞くことになっていなかった、ということでしょう。
神さまは一所懸命、御自身の御言葉を語ってこられました。「そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。にもかかわらず、聞いていなかった。聞こえてはいたけれども、聞いたふりをしていて、実際は聞いていなかったのか。そうではありません。実は彼らは、誰よりも熱心に聖書の言葉を聞いていたはずなのです。しかしそれが聞いていることになっていなかったのです。
本当に聞く、というのは、いったいどういうことでしょうか。
14節から21節に、聞くということにまつわって、信じること、呼び求めること、宣べ伝えること、遣わされること、良い知らせ、福音に従う、知る、探す、見出す、という言葉が書かれています。
本当に聞く、ということは、これらの言葉が重なったところに実現することです。つまり、自分のうちから出てくる何かを一切廃し、空っぽになって、そこに、神さまが語られる言葉を、受け入れていく。ときおり人間は、語られる言葉の中に自分の願望を投影して聞くということをしてしまいます。それでは聞いたことになりません。
自分の願望が投影されることがないためには、その語られる神さまが、絶対他者であり続けなければなりません。受け入れていく言葉は、自分が編み出したものではなく、伝えられたもの、であり続けなければなりません。
また、伝えられた言葉であり続けるためには、その言葉を語る者も、自らの願望に突き動かされて語るのではなく、常に、遣わされた者であり続けること。伝える人間は、いつも「通り良き管」であり続けることが必要です。
この通り良き管によって語られた言葉を、聞く。本当に聞くこと。それは、自分が主であることを放棄し、神さまに主となっていただく。自分の思いはとりあえず脇において、語られた言葉を信じ、従おうとする。そうしてこそ、本当に聞く、ということが生まれるのです。
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(第一コリント1・18)
十字架の言葉を聞くこと。十字架の言葉は、滅びる者たちには、愚かな言葉に響くのです。十字架の言葉が、愚かに響くようになったならば、それは滅びの道に進んでしまっている、ということです。
逆に、十字架の言葉が力となっているならば、それは救いの道に歩んでいる、ということです。
十字架の言葉が力となる。そのような、聞き方。それが本当に御言葉を聞くと言ことです。
そのためには、自分が罪びとである、ということを受け入れなければなりません。自分が罪びとである、ということは、皆さんも罪びとなのだが、私もその中の一人なのだ、というのではなく、私は罪人の頭である、ということを受け入れる、ということです。
信仰生活は、おおよそ、この自分は罪人の頭である、ということを受け入れることに終始することです。教会は、自分こそ罪びとの頭である、ということを堅く受け入れた者たちの集ります。自分の立派さや、賜物の豊かさを確かめたり、自らの承認欲求を満たすための場所ではありません。教会のプログラムは自己実現するための道具ではないのです。教会のすべての活動は、自らが罪びとの頭である、ということを受け入れた者によって成立します。また健やかに前進します。そして隣人への祝福と実を結びます。
十字架の言葉こそ力である、ということを受け入れた者、十字架なくしては生きていくことのできない者たちによって、イエスさまのお身体である教会は建て上げられていきます。
明日は主の日。礼拝の日です。今日は備えの日。良い備えの一日を送りましょう。