キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること

静まりの時 第一テサロニケ5・16~22
日付:2023年07月03日(月)

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
あらゆる形の悪から離れなさい。
(第一テサロニケ5・16~22)

 勧めとしての命令がまず三つ。「喜べ」「祈れ」「感謝せよ」。続いて禁止の命令が二つ。「消すな」「軽んじるな」。そして再び勧めの命令が二つ。「保て」「離れよ」。
 これらは一つひとつが独立して大切な勧めであり命令であると思いますが、同時にそれぞれは結びあい、また互いに支えあい補っています。

 いつも喜んでいなさい。いつも喜びにあふれて生きるためには、いつも祈りに生きることが大切でしょう。喜びに、そして祈りに生きるといっても、そこに感謝がなければ確かな喜びにならず、祈りもうわべだけのものとなるでしょう。
 すべてのことにおいて感謝しなさい。感謝すべき材料があるから、そのことについて、感謝する、というのではありません。すべてのことについて感謝する。感謝できないようなことについても感謝する。感謝することは、感謝するという行為、行動のことではなく、生き方、人生に対する態度のことです。
 祈ることも同様です。絶えず祈る。片時も絶やさず祈る。それは、手を組み目をつぶっての祈りも大切ですが、食事をしているときも、その準備の時も、労働に、学びにいそしむときも、そのすべてが「祈り」なのです。神さまに向かっていることなのです。すべてが祈りとなる生き方のことです。
 喜びも同じですね。三浦綾子さんは、ふきげんは罪である、と何かに書いておられました。いつも喜んでいること。笑顔を絶やさすにいること。
 喜ぶこと、祈ること、感謝することを、イエスさまは望んでいてくださいます。それは喜ぶという行為、祈るという行為、感謝するという行為、を望んでおられるというよりも、そのような生き方を望んでおられるのです。Doingではなく、Being です。

 これが、御霊を消さないことです。御霊にあふれている、といいつつ、喜びも祈りも感謝もなければ、御霊が消されてしまっているのです。
 御霊を消さないこと。それは預言を軽んじないことから生まれます。軽んじないという単語には、見下さない、侮辱しない、見捨てないという意味があります。預言を軽んじない。それは聖書のおことばを軽んじない、ということですが、なによりも、礼拝における説教を軽んじない、ということです。説教を語る者も聞く者も、説教を軽んじない、見下さない、自分に語られた大切な神さまからのおことばであるといつも受け止めること。それが御霊を消さない信仰生活を生み出します。そして喜びと祈りと感謝に生きる道を拓くのです。

 ただし、すべてを吟味しなさい。そうして良いものはしっかりと保ち、悪いものからは離れなさい。この吟味という単語は、同じ第一テサロニケ2章4節にもあり、そこでは「お調べになる」(「私たちの心をお調べになる神」)と訳されています。
 もちろんここでは「私たち」が「吟味する」ことが期待されています。しかし吟味する「私」とは確かなものであるのか。自分が吟味する、ということであれば、それは自分を神としているということではないか。
 私の感情や私の知識や知恵で「吟味する」のではないのです。すでに教会において教会法、教理、信仰基準、などなど、いくつものルールが作成されてきました。なによりも聖書はそれにあたります。またこの時代のあとも作成され続けます。そういう基準に従って「吟味する」のです。パウロはこの単語を多用しています。新約聖書22の用例中15がパウロ書簡に登場します。パウロの仕えた教会の状況がそうさせたのだろうと思いますが、そもそも教会というところは、吟味する、神さまによって吟味していただかなければならないお互いが集うところなのではないか、と思います。

 ところでこの「吟味する」は昨日の礼拝でも読みました。聖餐式においてです。

「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」(第一コリント11・28)

 同じ単語です。聖餐式における吟味も、自分の判断やその時の自分の感情によって吟味するのではないことは繰り返し学んでいます。自らを見れば罪びとでしかありません。主の御体にあずかるにはあまりにもふさわしくない者です。しかしそのふさわしくない者のために、十字架に架かり復活してくださいました。ふさわしくない者だからこそ、神の命が捧げられなければならなかったのです。主の愛は確かに発動されているのです。その確かさにおいて吟味します。自らをふさわしくない者、罪人と告白するものこそ、十字架と復活の恵みを知るのです。ふさわしくない者こそ、ふさわしい者なのです。そこでも、吟味するのは、神さまの基準に照らし合わせてすることです。

 昨日の午後の話し合いも感謝でした。多くの方が集い熱心に話し合いました。イエスさまを愛して、イエスさまのお身体である教会を愛して学びあいました。神さまへの愛は、教会への愛によって具体化される、のだなと考えさせられる時でもありました。今年はクリスマスコンサートを行う予定です。いまから楽しみです。
 会の中で引用したキリスト教会におけるカルトの定義についての文章は、WEB上で公開されています。
https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2022/12/22/340-%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%82%92%e8%a6%8b%e3%82%8b%e7%9c%bc-%e4%bb%8a%e3%80%81%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%92%e5%95%8f%e3%81%84%e7%9b%b4%e3%81%99%e3%80%94%ef%bc%91%e3%80%95%e5%af%be%e5%b2%b8/