静まりの時 出エジプト33・18~23
日付:2023年06月13日(火)
また主は言われた。
「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」
(出エジプト33・21~23)
主とモーセとの対話。聖なる主と罪びとであるモーセ。その対話は不思議に満ちています。
「どうか、あなたの栄光を見せてください」と願うモーセに対して、主は「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ」ると答えられました。しかし同時に「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」と言われます。「良きもの」についての主権はあくまでも主の御手の中にあります。主は、その主権を手放そうとなさいません。人間のなにかよって左右されることをよしとされないのです。
良きものはどこまでも良きものでなければなりません。それが神さまの御手を離れ、人間の何かによって左右されることになったとたん、良きものでなくなってしまうのです。荒野で降らせてくださった不思議な食物マナが、人間の都合で左右されると途端に腐敗してしまったように。
この主の栄光を、そして主の御顔を人間が真正面から見たならば、その圧倒的な輝きに人間は死滅してしまいます。ですから主はご自身の傍らに一つの場所を備えてくださいました。その場所とは岩であるといいます。人間は、その岩の裂け目に入れられる、そうしてかくまっていただく。主はこのように人間を御自身の圧倒的な栄光から守ろうとされました。
主の御心、ご計画をすべて見ることができれば、どんなに素晴らしいことであろうか、と思います。どうしてこのような事が起こるのか、ということに出くわすたびに、その理由、目的、こののちどのようになるのか、などすべて知ることができれば、どれほど今の時を安心して生きることができるだろうか、と思います。しかし主はそのように人間を取り扱おうとなさいません。
もしそのように、神さまの栄光を正面から見ることができたならば、人間はどうなるでしょう。神さまなくしても生きていけると思うのではないでしょうか。かつてエデンの園で「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」(創世記3・5)との蛇からの誘惑の言葉が重なります。
神さまの栄光をすべて見ることができる、との誘惑は、人間に魅力的なのですが、その先には、神なくしても生きていけると思い上がる人間の傲慢の道が続くことを、主は誰よりもご存じです。人間にとって、自らが神のようになることは魅力的です。しかしそこには滅びがあるのです。
それで、私たちが主の栄光を正面から見ることがないように、岩の裂け目にかくまってくださいます。岩は私たちをかくまってくださる神さまの愛なのです。
「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」
(マタイ16・18)
主イエスさまに向かって、あなたが生ける神の子キリストです、との信仰の告白をしたペテロ。その岩の上に建てると言われた教会。主は、岩の裂け目に私たちを守ろうとされるのですが、それはまたイエスさまご自身のお体である教会に守られることでもあるでしょう。
十字架の主の、その裂かれたお身体に私たちはかくまわれています。
「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
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万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」(詩篇46・1、11)
今日は久しぶりに対面での牧羊会(牧師会)が行われます。