静まりの時 使徒2・37~42
日付:2023年05月31日(水)
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
(使徒2・36~38)
ペテロの説教を聞いた人びとは心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか」とペテロに問いました。
「みことばの戸が開くと光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。」(詩篇119・130)
御言葉が語られると、人びとの心が刺された、と言います。そして何らかの信仰的な応答へと導かれます。神さまは人間をそのように造ってくださいました。
ペテロは心刺された人びとに「悔い改めよ、イエスさまのみ名によってバプテスマを受けよ」と答えました。
ペテロは、イエスさまを信じなさい、とは言わないで、悔い改めよ、洗礼を受けよ、と言いました。
もちろんイエスさまを信じること、信頼することが大前提でしょう。しかしイエスさまを信じるとはいったいどういうことであるのか。
イエスさまを信じる、ということは、すなわち悔い改める、ということであり、また主の名によって洗礼を受けるということである、ということです。
イエスさまを信じたけれども、悔い改めない、また洗礼を受けない、ということは、それは聖書の語る「イエスさまを信じる」とは少し違うことである、というのだと思います。
悔い改めとは、方向変換である、と説明されます。今までの生き方の方向を180度変換するのです。今までは自分が中心で、人生は自己実現がそのテーマでした。しかしこれからは神さま中心、神さまの御心が行われること。御心が天で行われるように地でも行われるようにと祈る人生へと変えられた、ということです。自分の心を見つめてみると、そこに信仰を持つということが自己実現の手段になってしまっていることがあるように思えてきます。もしそうであるとすれば、それはイエスさまを信じているとは言うものの、悔い改めに生きているとは言えないことになり、聖書の語る「信じる」に生きていないことになります。
イエス・キリストの名によってバプテスマを受けること。バプテスマ、すなわち洗礼自体は、ユダヤ教でも、バプテスマのヨハネの悔い改めのバプテスマにおいても、行われていました。それらとの大きな違いは「イエス・キリストの名によって」バプテスマを受けるようにとペテロが勧めた点です。
使徒の働きを読むと、主の名によるバプテスマが強調される場面が出てきます(使徒18・25,19・3他、ただし8・16の記述は異邦人宣教への幕開けとの関連で記されているので、この主題とは別のことと思われます)。
ユダヤ教で行われていたものでもなく、バプテスマのヨハネの宣教によるバプテスマでもなく、新しいバプテスマ。それが「イエス・キリストの名によって」のバプテスマであった、ということです。このバプテスマによってこそ、聖霊が与えられるのだ、とペテロは語りました。イエスさまのバプテスマとは、魔術的に「イエス・キリストの名」を用いたバプテスマということではなく、十字架と復活のバプテスマということです。
イエスさまを信じていないにもかかわらず行われる洗礼があるとすれば、それは単なる儀式であって救いとはかかわりのないものと言わざるを得ません。しかし信じたけれども洗礼は受けない、ということであれば、その「信じる」の中身を検証しなければならないでしょう。信じるということは、自己中心から神さま中心になることです。聖書に洗礼を授けなさい、と語られているのですから、素直にその言葉に従えない、とすれば少なからずその「信じる」には問題があるということでしょう。
また「信じる」ということが、私の精神的な営みであり、私の意思によるもの、あるいは意志によるものに終始しているだけであれば、その「信じる」は、突き詰めて考えてみると人間的な業であって、砂の上に家を建てるような信仰生活となってしまうでしょう。
洗礼を受けるということは、自分ではない人格である牧師(緊急の場合は信仰者であればとにかく他者)から、水の洗い、を受けることです。単に精神的なことではなく、この地上の歴史の中に、時間と空間の中に行われる式、歴史的な出来事なのです。私の揺れ動く心が土台となるのではなく、歴史的な出来事が土台となる信仰生活がそこに生まれるのです。ですから洗礼を受けるということは、大安心の信仰生活を始めることになります。
梅雨に入ったことで雨のためウォーキングに出かけられない日も増えてきそうな季節となりました。二年前の退院時は妻に手を引いてもらってのウォーキングでしたが、今は私のほうがリードする場面が多くなりました。「おてて、つないで、野道をゆけば~ ♪」と歌いながら・・・。これには替え歌があって「おててんぷら、つないデコちゃん、のんきなとうさん、ゆけ、バリカン、みんな、かきくけこんにゃく、みそまめ、らっきょ・・」と妻に教えてあげました。