私に倣う者となってください

静まりの時 ピリピ3・17~21
日付:2023年05月15日(月)

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
(ピリピ3・17)

 「私に倣う者となってください」。
 自分に当てはめてこのように言い切ることができるだろうか。このように言い切ることができなことが、自分の信仰の弱さにつながっているのではないだろうか。倣う者となってください、と言い得ないのは、謙遜ではなく、自分の信仰の足りなさをごまかすことではないだろうか。そんなことを思わせられる言葉です。
 数年前にバイクの免許を取りに教習所に通ったとき、なんども、これは自分には向いていない、やめよう、どうしてやり始めたのか、と後悔したことでした。教習所の先生は、大昔とは違いやさしく指導してくださいます。おそらく心の中では、どうしてこのおっさんは分かってくれないのか、と思っておられたことでしょう(笑、そんなことはないと思いますが、)。指導してくださる先生は、まず自分がやってみて、こうするのだよ、という風に指導してくださいます。「私に倣う者となってください」。しかしそれを見てもなかなか同じようにはできないのです。何とかまねることができるまでにはかなり時間が必要でした。なんどバイクを転倒させたことか・・・。
 「あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」ということで、一緒に通った若者たちの姿を見ることでしたが、彼らは呑み込みが早いというか運動神経がよいのか。しかし難しいところでは同じように悩んでいることも分かってくると、こちらも勇気が出てきます。ある時など、自分のほうが上手にできた場面があると、喜びまでわいてきます。
 教習所の先生も、上手に乗り回している若者たちも、最初はなかなか難しかったことでしょう。しかし懸命の努力の賜物で今があるのでしょう。

 さて信仰のお話しですが、パウロも最初は散々だったと思います。しかしイエスさまはあきらめずにパウロを導き続けてくださいました。パウロも相当努力をしたことでしょう。一般にアラビア捕囚と呼ばれるところでしょうか(ガラテヤ1・17)。
 パウロが、自分を見倣ってほしい、というのは、この次の節を見ると、「十字架の敵として歩んでいる」キリスト者が多い、ので、自分のように十字架の味方として歩んでほしい、ということでしょう。また十字架を敵とせず、味方として歩んでいる人たちにも目を留めてほしい、ということでしょう。
 けっして立派な信仰に生きている私を見倣いなさい、などといっているのではありません。十字架の味方として歩んでいる自分、すなわち十字架なくしては生きていくことができない者の姿に目を留め、見倣ってほしい、ということだと思います。

 十字架の敵として歩まない、十字架を味方として歩む、ということ。
 それは自分が罪びとの頭であることを忘れない、ということ。自分が救われたのは、一方的な神さまの恵みによることである、ということを忘れない。その喜びを忘れない、ということなのだと思います。
 今日も十字架と復活の主がともに歩んでくださることを感謝します。

 昨日は、花の日でした。母なくしてこの世に生まれた者は一人もいません。すべてのお母さんと呼ばれる方に感謝をささげたいと思います。あなたのおかげて私は今日も生きています。教会学校では、カーネーションの工作をしました。
 教会学校の聖書の個所と、礼拝での聖書の個所が不思議にリンクしていました。礼拝では、結婚式の讃美歌(新聖歌502)も1曲歌いました。普段あまり歌わないので、どうか、と思いましたが、やはり礼拝で歌うことは良いですね。
 この新聖歌502ですが、2節の最後で、音と歌詞を合わせるのに少し迷ってしまいました。もともと讃美歌428番「またき愛、たまう(たもう)神よ~」で親しんできたことでしたが、讃美歌21の102「全き愛 与える主よ」で新しい歌詞となり、新聖歌はこちらが引用されています。
 新聖歌のほうは1節だけが楽譜の下に記されていますが、讃美歌21では全節が楽譜に記されているので、歌詞の割り当てがはっきりしています。

〔1節〕めぐみ しゅくして ください
〔2節〕しもな や みもき えゆく
〔3節〕あいを そ だてて ください

ということですね。ご苦労さまでした。次回は迷わずに賛美したいと思います(笑)。

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