静まりの時 ネヘミヤ8・1~3
日付:2023年05月12日(金)
1 民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。
2 そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、
3 水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。
(ネヘミヤ8・1~3)
前節にあたる7章72節には
「こうして、祭司、レビ人、門衛、歌い手、民のある者たち、宮のしもべたちが、すなわち、全イスラエルが自分たちの元の町々に住んだ。
イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、」
と記されています。「全イスラエルが自分たちの元の町々に住んだ」。すなわち破壊されていた城壁が完成し、捕囚の中にあった人びとがすべて帰還しました。「第七の月」、8章14節を見ると仮庵の祭りが行われる月ですから、今日でいうと10月ごろです。2章1節に「ニサンの月」とあります。今日では4月ごろにネヘミヤが祈り始めた城壁の再建は、「52日かかって、エルルの月」(6章15節)すなわち9月に完成しました。そして翌10月になると、民は一斉に水の門の前の広場に集まってきました。そこで民は、エズラに律法の書を持ってくるように命じ、エズラは最初の日に「夜明けから真昼まで」、律法の書を朗読しました。民はみな律法の書に耳を傾けました。
7章66節を見ると、全会衆の合計は4万2360人とあります。この会衆がすべて集って来たのでしょう。そのほかに男女の奴隷が7,337人、男女の歌い手が彼らのほかにいたとすればさらに245人。彼らも一緒に集まったのでしょうか。いずれにせよ4万人を超える人びとが集って来たのです。聖書はこのおびただしい人の群れを群衆とは呼びません。会衆と呼びます。英語ではcongregation。つまりただ無目的に群がり集ったというのではなく、一つの目的を持って集まった人びとです。時に単数扱いされる人びとです。皆がそれぞれに個人的な目的をもって、その満足のために集まった人たちではなく、一つの共同体の中にある目的をもって、あるいはその目的を確認するために集まった人たちです。集ったというよりも、神さまに集められた人たち、召された人たち、新約聖書的には教会のことといえるでしょう。
その会衆に向かってエズラは淡々と聖書を朗読します。民はひたすら耳を傾けます。何か気の利いたプログラムがあるわけではありません。淡々と聖書が朗読され続けます。その言葉に、民はひたすら耳を傾けのです。説教者リュティはこの個所の講解説教において次のように記しています。
「必要なものはみな、欠けています。しかし、本当に必要なもの、すなわち、聖書はそこにありました。聖書さえあれば、礼拝のためには、ほかに何もいりません。何が無くともかまいません。戦争が終わったあとでは、至る所において、必要な多くのものが欠乏します。会衆の讃美歌をリードするオルガンがありません。礼拝の開始を告げる鐘もありません。そちこちにあるのは、『バラック会堂』ばかりです。でも、聖書さえ欠けていなければよいのです!」(リュティ、『預言者ネヘミヤ』、訳・宍戸達、新教出版社、1987年、145頁)
「エズラは朗読し、ひたすら朗読するのみであって、人々を鼓舞するような説教をしていません。ただ、淡々と朗読し、民はそれに耳を傾けます。明確に、『男とも女も』というふうに記されます。人々は聖書に耳を傾けます。眠る人はいません。こんなことではなくて、もっと他に有益で気の利いた事ができそうなものだ、などと考える人はいません。聞くということ、神のみ言葉に聞くということ、そのことこそ、今、人間にとって必要な、ただ一つの事柄であるということを、彼らは知っているのです。朝の涼しい時にエズラは朗読を開始しました。きちんと記されています。『あけぼのから正午まで、男女および悟ことのできる人々の前でこれを読んだ』(3節)と。やがて太陽が高くのぼり、容赦なく照りつけます。しかし、エズラはなお朗読を続けます。・・・」(前掲書、147頁)
説教者は講壇に立つとき、足が震えるほどにおそれを覚えます。自分の語る言葉が会衆に届くだろうか、届いているだろうか。会衆を眠らせまいと身振り手振りでアッピールします。声の抑揚を変えたり、話題も抽象レベルに変化を与えたり、例話を多様したり・・・。
デンゼル・ワシントン、ホイットニー・ヒューストン主演の映画『天使の贈り物』で、善良で愛にあふれた牧師をコートニー・B・ヴァンスが演じるのですが、説教がちょっといまいちなのか、説教中にホイットニー・ヒューストン演じる牧師の妻が、その素晴らしい歌声によって会衆を盛り上げようとする場面があります。ちょっと身につまされるシーンでした(笑)。
説教者は淡々とみ言葉を語る。群衆ではなく会衆はひたすら耳を傾ける。そこに神さまが豊かに働いていてくださる。礼拝としてのあるべき姿を考えさせられます。
昨日は、団体のひとつの教会の不動産の最終支払いと手続きで出かけたのですが、トラブルもなく予定通りにすべて終了しました。感謝です。今後小さな改装をして秋の終わりには新しく出発できるとのことでした。お祈りありがとうございます。
午後にガスの点検作業があったのですが、その時にジャーマン・アイリスの鑑賞に立ち寄ってくださった方がおられました。ガス点検の対応(そんなになかったのですが)バタバタとしてしまい立ち話だけでしたが、たくさんの方に祈っていただいているのだな、とあらためて実感し大変励まされました。感謝です。
ジャーマン・アイリスは今が一番咲いているタイミングでしょうか。二階の牧師室にまで花の香りがしているような気がします。
先日、なんじゃもんじゃの木ではないか、いや違う、という話題の木を写真にとってきました。何でしょう。