見よ、わたしは新しいことを行う

静まりの時 イザヤ43・16~20
日付:2023年05月11日(木)

18 先のことに心を留めるな。
  昔のことに目を留めるな。
19 見よ、わたしは新しいことを行う。
  今、それが芽生えている。
  あなたがたは、それを知らないのか。
  必ず、わたしは荒野に道を、
  荒れ地に川を設ける。
(イザヤ43・18,19)

 「先のこと」とは「先にあったこと」(共同訳)ですから、過去のことです。重ねて「昔のことに」と続きますので、とにかく過去に起こったことごとに心を、そして目を留めてはならない、と語られています。
 これに先立ち16~17節では、出エジプトの出来事が語られています。旧約聖書のほとんどにこの出エジプトの出来事は記されています。この出エジプトの出来事は過去のことです。つまり聖書は過去のことに心や目を留めています。
 キリスト教会は、十字架と復活の出来事を語り続けています。これも過去のことといえば過去のことです。聖餐式も十字架にかかられる前夜の出来事に遡りますから、過去のことを繰り返しているとも言えます。
 出エジプトの出来事を記念することや十字架と復活、聖餐の繰り返しは、過去のことに目を留めることではないのだろうか。過去のことに心や目を留めてはいけないというのはいったいどういう意味なのか。

 出エジプト後、荒野の旅の中で苦しみが起こると民はエジプトを懐かしみました。しかし聖書に出エジプトの出来事が繰り返し記されているのは、その民のように過去の郷愁に浸りながら、現実逃避しているのではありません。今を生きるために、神さまがどんなに素晴らしいことをしてくださったかを忘れない、そのために繰り返し出エジプトの出来事を記しているのです。
 過去を忘れない、過去から学ぶ、というのは、今を生きるためなのです。今をよりよく生きるために過去を覚えるのです。十字架と復活の出来事を覚えるのは、今を生きるためであり、聖餐式を繰り返すのも、今生きておられるイエスさまに生かされることです。今の現実の世にキリストの愛を携えて派遣されるためです。
 現実逃避や現実の否定のために昔のことに目を留めることから解放していただき、新しいことをしてくださる主を見上げて歩んでいきたいと思います。

「今、それが芽生えている。
 あなたがたは、それを知らないのか。」(19)

 新しいことが起こっている瞬間を、私たちは知らないのです。新しいことが起こった、とそれを知った時点ではすでにその出来事は過去のこととなっています。おおよそ出来事に対する評価というのは、その時点では過去の出来事に対してしか行うことができないことでしょう。
 ということは、今こうして何も起こっていないかに見える瞬間に、すでに新しいことが起こっているかもしれません。私たちは知らないだけで、新しいことが起こっているかもしれないのです。そのことを期待していること。
 もちろん否定的なことが新しく起こっているかもしれません。しかし神さまは「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」と約束してくださっているのですから、私たちは常に希望をもって生きることができるのです。私は知らなくても、神さまはよくご存じなのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29・11)

 今日は、団体のひとつの教会の不動産購入の最終支払い、所有権移転登記の手続きで朝から出かけることになっています。手続きがスムーズに進むようにお祈りいただければ感謝です。あわせてその教会の新しい働きのために、この地にあっての福音の前進のために、お祈りいただければ幸いです。

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