静まりの時 第二テモテ2・8~13
日付:2023年05月10日(水)
8 イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。
9 この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。
10 ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。
(第二テモテ2・8~10)
「心に留めていなさい」。共同訳では「思い起こしなさい」。若き伝道者テモテに向かってパウロは語りました。心に留めよ、思い起こせ、今あなたに必要なものは一つだけである、それはイエスさまを心に留めることだ、思い起こすことだ、忘れてはならない、と。これさえ心に留めているならば、大丈夫だ、と。
パウロは犯罪者のようにつながれています。しかし神さまの言葉はつながれていないと言います。伝道者である自分がつながれているからといって、神さまのお言葉はつながれてはいない。どのような形であろうとも、神さまの言葉は宣べ伝えられていくのだ、と。
神さまの御言葉はそれ自体「力」をもっています。語る者がつながれていても、すなわち、不自由であっても、限界があっても、不十分であっても、常に力強く前進していくのだ、というのです。伝道者であるパウロ自信はつながれているけれども、神さまの御言葉は力強く前進していく。イエスさまのことをしっかりと心に留めているならば、伝道者がどのような状態であれ、神さまの御言葉は前進するというのです。むしろ弱さの中にあるからこそ、御言葉自身がその力を発揮する、ということかもしれません。
パウロは「ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます」と語ります。忍耐する、というのです。御言葉はつながれていないのだから、自分たち伝道者がすべきことは忍耐である、というのです。伝道者に必要なことは、この忍耐なのですね。雄弁さでも、聖書の知識の豊富さでも、敬虔さでもなく、ただイエスさまのことを心に留めて、忍耐し続けること。それが必要なのです。それが福音の前進を生むのです。
忍耐は、ちょっと否定的な感じがしますが、これとよく似た言葉に「我慢」という言葉があります。忍耐と我慢の違い。我慢というと「我」を「慢心」させる、と書きますが、結局自分に終始してしまうことであり、そこには希望がないように思います。それに対して忍耐は、自分ではないもの、すなわち神さまへの希望が、その根底にあると思います。どこか明るさがあるのだと思います。パウロは望みにあふれて、私は忍耐する、と語ったのだと思います。つながれていても、犯罪者のように牢獄にいても、さまざまな弱さの中に限界を見せつけられていても、神さまの光に照らされて、喜びと感謝をもって忍耐したのだと思います。
昨日は団体の牧師会、牧羊会と呼んでいるのですが、牧師たちの話し合い、交わりがオンラインでありました。礼拝に始まり御言葉が語られました。創世記28章5節から、試練を越えて変えられ祝福を語る者となることが説き明かされ、大いに励まされました。各種報告が続き、自主研究発表がありました。今回は説教について、米国の研究雑誌からの翻訳と説教準備に関する要点が分かち合われました。大変刺激的な学びの時となりました。それにしても先生方はよく勉強しておられるなと感心しました。
午後のウォーキングで、新緑を背景に限りなく白に近いうす緑色の、遠くから見ると泡のような花をつけた木を見かけました。妻が、あれは、なんじゃもんじゃの木かな、とつぶやきました。調べたところ少し違うようでした。それにしても、なんじゃもんじゃの木、などという人を喰ったようなネーミングの木があるのですね。